この記事は、ある秋の日、私が遭遇した恐怖の一夜について語るものである。
思い出すたび全身の毛が逆立つような、それはそれは、おそろしい夜であった。
怖い話が苦手な方は、注意していただきたい。
そして、タイトルおよび画像から連想される生き物が苦手だという方も、注意していただきたい。
(逆に、これを読んでも「それの何が怖いの?」とおっしゃる方もきっといるであろうことを、最初にお断りしておく。)
長い夏が終わり、涼しくなってきた時期だった。
その日は、夫(ヨウちゃん)が子供たちを寝かせると言って、先に布団に入ったので、
私は久しぶりに自分の作業をする時間ができて、リビングでパソコンに向かっていた。
まさに、秋の夜長といった気分だった。
外は涼しいので、窓を開けている。
夜気が心地よく感じられる。
外からは、時おり様々な生活音がかすかに響いてくるが、住宅街はおおむね静かだ。
残念ながら、雲が空を厚く覆って、月は見えない晩だった。
…ふと、なにか動くもののような気配を感じた。
私はドキリとした。
こういうとき、頭に浮かぶ嫌な予感は、あの唾棄すべき黒い害虫「G」が出ることだった。
(私はその害虫が嫌いなので、名前を書きたくないが、皆さんお分かりだと思う。)
しかし、注意深く見渡しても、そんな姿は見えなかった。
気のせいかな、と思って、再び作業に戻る。
部屋は静かだった。
夫も子供たちも、安らかに寝付いているようだ。
少しの間。
…再び、なにか動いたような気がした。
…
…
いや、動いていた。
——私は見てしまった。
見た瞬間に背筋が凍りつく…、いや、そんな言葉で足りないような衝撃があった。
見てはならないはずのものを見ていた。
超巨大なクモだ。
——クモ。
いや、あえてアラゴグと呼びたい。
私の知っているクモではなかった。
家の壁によくちょこんと這っている、あのハエくらいのミニサイズのやつでもなければ、
公園や散歩道で木立の中に見かける、対称的な多角形の巣を張ってその真ん中に鎮座している足の長いやつでもない。
…でかい。
ちょっと信じられない大きさだった。
私の手のひら目いっぱい広げたより、絶対でかい。
足が太い。
色は灰色がかった黒。
ソロソロと、這っていた。
明らかにおかしいサイズだった。
住居の中に出没してはならないレベルの大きさだった。
嘘だと思った。こんなのいるはずがないと。
衝撃に頭は真っ白になり、しかし間違いなく、それはいた。
一瞬にして、恐怖と恐慌で全ては塗り尽くされた。
私は叫んだ。
「ヨウちゃん!ヨウちゃん!!ヨウちゃん!!!」
あと何か言ったかもしれない。覚えてない。
そして転げ回るようにその場を離れた。
子供と一緒に眠っていた夫(ヨウちゃん)は、隣の部屋から寝ぼけ眼で出てきた。
そして、私の大声のあまり目が覚めてしまった次男(ふ―くん)も一緒についてきた。
ヨウちゃんは、起こされて不機嫌だった。
そして、ふーくんを起こしてしまったことを怒っている様子だ。
彼は目をこすりながら、面倒くさそうに、「なんだよ…」と言う。
「ヤバいのがいる!!ヤバいのがいる!!マジでヤバいのが!!マジでヤバい!!ホンットにヤバい!!」
私は事態のあまりの衝撃を伝えようと、ほとんど暴れまわりながらわめき散らした。
ヨウちゃんは、再度、「なんだよ…」と言う。

メガネがなくて見えないんだよ…

メガネ、テーブルのうえにある!!見てよ!!早く見て!!
ヤバいんだよ!!マジでヤバいの!!Gじゃない!!Gじゃない!!ヤバいのがいるんだよ!!

ヤバいのってなに…大声ださないでよ…

いるでしょそこに!!いるでしょ!!ほらそこ!!
ヤバいのいる!!クモ!!クモ!!
あり得ないデカイやつ!!ほら!!

いないよ…どこだよ…
彼は機嫌が悪い。そして、反応も鈍い。
夜中に何を大騒ぎしてるんだよという、いかにもうっとうしそうな態度なのだ。
しかし彼は誤解をしている。事態の恐ろしさをわかってない。
見ればわかるはず。あの恐ろしいやつを一目見さえすれば、説明なんか要らないはず。
私は必死にヤバさを伝えようと声を張り上げた。
「…どこにもいないよ」
「いるよ!!いたんだよ!!ホントだよ!!さっきマジでいたの!!」
「いや、そうかもしれないけど…そんな大声だしてたら逃げちゃうよ」
ヨウちゃんは不機嫌で、面倒そうで、まともに取り合ってくれない。
ひととおり部屋を見渡して、「いないよ?」という。
私は半泣きになり、そして半狂乱になった。
「でもいたんだよ…!!嘘じゃないんだよ…!!」
「いや、嘘だとは言ってないけどさあ…」
「ホントにいたんだもん!!嘘じゃないもん!!」
トトロのメイちゃんどころではなく必死になって私は言った。
どうしたって見つけてもらわなければならない。そして対処してもらわなければならない。
今この絶望的な恐怖から救ってくれるのはもう彼しかいないのだ。
起きてしまったふーくんは、きょとんとして、大きな目をくりくりさせて、
どうしたの??という雰囲気で抱っこをせがんだり、様子を見にトコトコ歩いて行ったりしている。

とにかく、そんなに騒がないでよ…。
それじゃあ、なんかいたとしても出てこないよ…。

騒ぐよ!!騒ぐよ!!大変なことなんだよ!!
もうあり得ないようなのがいたんだよ!!考えられないようなやつだよ!!嘘じゃないんだよ!!

いや別に嘘だとは

ヨウちゃんは私が大袈裟に言ってると思ってるんでしょ!?
よく家に出るほんのちっちゃなやつを見て、過剰反応で大騒ぎしてると思ってるんでしょ!?
でも違うから!!違うから!!ホントにヤバいやつがいたんだよ!!
信じられないようなやつがいたんだよ!!

それはわかったよ…。
とにかく、クモなんかしょっちゅう出るんだって。騒がないでよ…。
俺こんなデカイの見たことあるし、普通にいるよ…。

普通にいるわけないだろ!!あんな恐ろしいもの、私見たことないよ!!
…しかし、クモの姿はなかった。
私はなんとかクモを見つけて退治してもらわねばと、棒つきの虫取網を持ってきてヨウちゃんに渡し、そこらをつついてもらうよう言ったが、
やる気のない夫がしばらく探しても、その姿はなかった。
…時間は無為に経過した。
もしかして、私は幻覚を見たのだろうか…??
そんなことを考え始めた。
Gならともかく、あのサイズのやつがそんなに容易に隠れ潜めるわけがない。ついさっき目の前にいたのだ。
…いや、しかしあんな生物がまさか家の中に出るなんて、そんなことあるはずないじゃないか。
ここは山奥でもないし森のバンガローでもない。東京の真ん中にあんなのがいるはずない。
私はあり得ないものを見ているのだ。
確かにいた、動いていたと確信しているけれど、あれは私の疲弊した脳が見せた幻覚だったのではないか??
でなければ、私だけがあんな信じられないような恐ろしい生物を目撃したことになる。
幻覚だったのかな…??
錯乱の中、悄然となって私は口にした。
「だってあんなの、いるわけないもんね…?」
「いや、別に幻覚とは思わないけど」
ヨウちゃんはシラけた態度で言った。
「いたんだと思うよ。よくあることだよ」
「よくあることじゃないよ!!」
もう泣き声である。
頼みの綱の夫がこれでは、誰も私をこの地獄の恐怖から救いだしてはくれないことになる。
私に錯乱をもたらした恐るべき生物の姿は見つからず、しかし恐怖と絶望は募るばかりで、時間だけが過ぎていく。
ふーくんは、相変わらずきょとんとして、ウロウロしている。

ぎゅーにゅーのむ!
牛乳を要求して何度も飲み、ときどき床にこぼしたりしている。
床を拭かなければ、と思いながら、怖すぎて体がこわばって動けない。
あれは幻覚だったのだろうか?むしろそうであったならいいのに…。
そんな思いにとらわれて、私は、その手がかりを確かめるためにネット検索をしてみた。
——「家の中 クモ 巨大」
画像が出てくることは予想していたので、身構えてはいた。
…しかし実際に検索結果が出ると、思わず身の毛がよだつ感覚があって、「ギャー!」と言った。
アシダカグモというのが出ていた。
…これだった。この見た目。確かに一致している。
これかもしれない、と言って、ヨウちゃんに見せた。

ああこういうの、うちの実家によく出てたよ。Gとか食べてくれるやつだよ…

いや大きすぎでしょ…!!よく…出…ないよ…こんなの…!!

臆病で何の害もないクモだよ。ハルが大声出すから逃げちゃったんだよ

いやこんなのが家に出るとか…そんな馬鹿な…!!
シカやイノシシが出る家じゃないんだよ…!!

そんなん何も怖くないよ。のろくて弱っちいから、うちのネコによくやられてたよ?
彼の言い分が正しければ、このような巨大グモが屋内に出没することは、他でも起こっている事案ということになる。
しかし私はこれまで40年以上生きてきて、一度だってこんなもの見たことはない。
ヨウちゃんは馬鹿にしたように鼻で笑って言う。
「ハルが見たことないだけでしょ?
そりゃ都会の人は知らないかもしれないけど、そんなのどこにでもよくいるし」
まるで私が世間知らずのお上品ぶった都会の薄っぺらなマダムで、
自分は田舎で逞しく鍛えられたサバイバル能力満点の男ですと、言わんばかりである。
私はそんな都会のど真ん中でだけ暮らしてきたわけではない。
しかし人々はこんな生き物と本当に日頃から共存しているのだろうか??
あれはクモなんてものではないじゃないか…!!
「もう考えられないようなデカさだったんだよ…ヨウちゃんだってホントに見たら驚くよ…。アラゴグだよ!!タランチュラだよ!!」
「タランチュラはもっとデカイよ」
私がどんなに恐怖を訴えても、ヨウちゃんはまともに取り合ってくれない。
そんなのよくいるし、怖くないし、害もないし、もうどっかに隠れて出てこないよと言うのであった。
そんなことより、ふーくんが起きてしまったことの方が問題だ、と言わんばかりだ。
あんな巨大なものがこの狭い家の中に隠れ潜んでいてたまるかと私は思う。
とても安住していられない。
ふーくんは、親の会話をよく聞いていて、
クリクリの目でウロウロし、「くもいたー」などと言っている。
ヨウちゃんはまったく私の恐怖に寄り添ってくれず、ただもう騒動が面倒だという態度である。
私が彼と結婚した理由の8割は虫の恐怖から守ってもらうことだったのに、これでは意味がない。
ヨウちゃんは眠そうに何度も目をこすり、いいからもう寝ようよ…みたいなことを言いながら、窓を閉めようとした。
そして、「あ、いた」と言った。
彼によれば、網戸のところに張りついていて、ベランダに逃げて行ったのだという。
「アシダカグモだったね」
あっさりと彼は言う。
…いや、もっと騒いでくれ。お願いだから。
もっと危機を感じてくれ。頼む。ごはんつぶ落ちてたみたいに言わないでくれ。
ふーくんは、相変わらずきょとんとして、お父さんのところへ見に行ったりしている。
そして、長男(ひーくん)は、これだけの騒ぎにもかかわらず、微動だにせず寝ている。
クモは私が確かめるまでもなく、もう出て行ってしまったらしく、ヨウちゃんはさっさと窓を閉めてもう布団に入ろうとしている。
まるで何事もなかったかのような態度である。
私は未だ、これが現実なのかどうか信じられないような気持ちで、呆然としていた。
慌ただしくも平和な日々の中で、このような恐怖体験が忍び寄ってこようとは考えもしなかった。
人々はこんな恐ろしいものに直面しながら日々を生きているのか…。
自分が知らないだけで、こんな底抜けの恐怖が、日常のすぐそばに潜んでいたとは。
身の毛もよだつようなモンスターが、ここにも、あそこにも、私の家の中にもいる…。
あれ以来、私は夜中の一人作業が怖くて仕方がない。
今夜、そいつはあなたの足元にも忍び寄っているかもしれませんよ…


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