・イギリス「タバコ禁止法」への驚き
2カ月ほど前に、イギリスで、タバコの販売を禁止する法案が議会を通過した、との報道があった。
具体的には、2009年1月1日以降に生まれた人に対し、紙たばこや電子たばこの販売を禁じるというものらしく、
これによって、2009年以降に生まれた人(現在は未成年ということになるが)は年齢にかかわらず、一生タバコが買えないということになる。
法律の目的は「“smoke-free generation”(喫煙のない世代)を作り出す」こととされており、現在未成年である世代を「スモーク・フリー」にすることを通じ、段階的に社会からタバコを消し去ろうとしているのだろう。
率直なところ、私はこのニュースに驚いた。そんなこと許されるのか?と思った。
この法律は、特定年齢以降の国民に対し、喫煙という行為を事実上禁じるに等しい内容であり、非常に厳しい規制だ。ハッキリ言って、国民の自由の侵害ではないか?対象が、現在選挙権を持たない未成年者だからといって、何をしてもいいってものではないんじゃないか?
民主主義がもっとも早く発達した国といえるイギリスで、そんな法律ができたなんて驚くべきことだ。
上流階級の紳士が、サロンで集まって、プカプカとパイプをふかしているというのが、(私の勝手な)イギリスのイメージである。
あのシャーロックホームズだって、パイプがトレードマークじゃん。ホームズが口にくわえているのがチュッパチャップスだったりしたら、全然しまらないだろう。
これが今の世界の潮流なのだろうか。
いずれこんな動きが各国に拡大して、我が国も同じ道をたどるのだろうか。
あんまり驚いたので、しばらくこの件について考え込んでしまった。
本稿は、その考え込んだ内容を詰め込んでみたものだ。※長いです。マジメくさっています
・最初に:自分の立場と考え
最初に自分自身の立場を明らかにしておく。
私はタバコを吸ってないし、一度も吸ったことがないし、これから吸うつもりもない。
家族にも喫煙者はいないから、日頃はまったく無煙の状態で暮らしている。
タバコの煙は臭くて有害で、吸い込みたくないと思っている。
禁煙化されていない飲食店には不満を持っているし、飲み会の場で、なんの断りもなく吸い始めるオッサン(最近はあまりいないが)には内心大いに憤慨していた。
だからタバコがこの世界から根絶されるとしたら、自分としては大歓迎である。何も困らない。
そういう気持ちではあるが、一方で、喫煙したい人が喫煙する自由を奪うべきではないと考えている。
喫煙者を守りたい、と思うからではない。
それを決めるのは本人であるべきで、社会が禁止を強制することが妥当ではないと考えているからである。
・法案審議に現れている「自由」をめぐる議論
私の頭にあるのは、タバコがどの程度有害かということではなく、「社会が個人の自由を規制するのは妥当なのか」という問である。
イギリスのこの法律は、2024年に一度、下院で可決されている(その後、解散に伴い廃案になって、再度提出された模様)ようなのだが、そのときのBBCのニュースでは、以下のように報じられている。
ここで出されている意見には、「個人にとって有害な行為を社会が規制することをどう考えるか」という議論の様相が鮮明に現れている気がするので、記事を引用する。
投票では、リズ・トラス前首相を含む何人かの保守党議員が、個人の自由を制限するとして法案に反対票を投じた。
トラス氏は、この法案は人々を幼児化させる危険性があると下院で述べた。
「人が成長する過程で意思決定ができるようになるまで、彼らを保護することは非常に重要だ。しかし大人を自分自身から守るという考え方は非常に問題だと思う」
閣僚経験者のジェイク・ベリー卿は、ニコチン中毒者のことよりも、「政府が人々に何をすべきかを指示する中毒性」を懸念していると語った。
「私は、良い決断も悪い決断も自由にできる自由な社会に住みたい」
ヴィクトリア・アトキンス保健相は「依存症に自由はない」と、法案を擁護。「たばこのない世代」を作り出すと説明した。
また、「物事を禁止する」ことへの懸念は理解できるとしながらも、 「ニコチンは人々の選択の自由を奪う」ものだと指摘した。
「喫煙者の大半は若いときに喫煙を始め、その4分の3は、もし時間を戻せるなら喫煙を始めなかったと言う」
私個人としては、「良い決断も悪い決断も自由にできる自由な社会に住みたい」という声に非常に共感を覚える。
「政府が人々に何をすべきかを指示する中毒性」を懸念するという声にも、同意する。
一方で、「依存症に自由はない」という意見は、タバコを吸うのは個人の自由な選択ではなく、依存症に陥ってしまった結果であり、その個人は依存症によって自由な選択を奪われているのだ(だからそんな状況にならないように、規制によって個人を守らなければならない)という考え方に立っている。
一種のパターナリズムと言っていいだろう。
喫煙が有害であることは近年もはや当たり前の知見になっている。タバコのパッケージにもそのことが明記されているはずだ。
タバコを吸えば本人の健康を害する。もちろん、他人のいる空間で喫煙すれば、他人の健康をも害するわけだが、ここでは他人の健康を直接害するような行為は当然すべきではない(その点については議論の余地がない)という前提にたっておく。
いま、興味があるのは、個人が自己にとって有害な行為をする自由は守られるのか?ということだ。
私は、個人の自由を最大限重視したいと考える立場である。
個人の意思に基づく行動を国家や社会がむやみやたらと制限するべきではない。
一方的に、「あれがいい、これがダメ」という判断を押しつけて、従わせるような社会に住みたくない。
それが仮に、いかにも不当な理屈ではなく、「あなたの健康のためにやめるべき」という、倫理的・道徳的に正しくて親切そうなお題目によるものだとしても、それを強制されたくない。
自分のことを決めるのは、それぞれの個人であるべきだと思っている。
・悪い決断をする自由
「良い決断も悪い決断も自由にできる」という言葉を借りるなら、私は自分にとって悪い決断をする自由がほしい。
そのことが自分を害し、傷つけるかもしれないが、その選択をする自由が最初から剥奪されていたら、私は誰かがあらかじめ「望ましい」として決めつけた人生しか送れないことになるではないか?
そこに自分の意思もなければ願望もなく、単にプログラム通り稼動しているということにしかならない。
そんな人生を自分で「価値がある」と感じられるだろうか?
聖人君子的な思考を有する人々は、「悪い決断をする自由なんか必要ない」と言うかもしれない。いい決断のオプションの中から好きなものを選べばいいのだと。
タバコを吸う自由はなかったとしても、その時間にもっといいことをすればいいのであり、その「もっといいこと」(例えば運動。栄養のいい食事の自炊。そういう、健康で望ましい何か)は自分で選べるだろうと。
私はそう思わない。
個人の選択に自由がないとき、その選択の結果としての行動にも何の価値もなくなってしまう。
仮に悪い決断をする自由が最初からないのだとしたら、もし良い選択をし、行動したとしても、「良い選択をした」ということの価値だってなくなってしまう。最初からそれしかできないんだとしたら、その行動の評価を当該個人に帰することはできない。
「悪い選択もできたんだけど、いい選択をした」からこそ、いい選択をした個人の行動を価値あるものと見なしえるのではないだろうか?
無償で人助けをする行為は尊い。でもそれは、「やらなくてもいいけどやった」という、個人の意思の結果として尊いのであって、それが完全に義務づけられていたり、強制された行為だったとしたら、その尊さは失われ、ただ、押しつけられたことを遂行しただけということになる。
子どもが「親が留守の間、テレビゲームしちゃダメだよ」と言われていたとして、実際に親がいないとき、ゲームをすることもできたのに、約束を守って我慢したのだとしたら、「えらいね」と言われるだろう。しかし、ゲーム機自体が鍵付きロッカーに入っていて出せない状況だったとしたら、「えらいね」ということにはならない。選択できる状況の中で、欲求を統制し、「約束を守る」という良い選択をしたから褒められているのだ。
選択の自由が、その行動の価値を評価する時の前提を構成するものだ、ということは間違いない。
「良い選択も悪い選択もできる自由」が失われれば、人間の行為の尊さや偉大さは半ば失われてしまうように思う。
私自身の考えは、以上のようなものだ。もちろん、色々な反論があり得ることは分かっている。
・古典が示す見解:ミルの「自由論」
社会が個人の自由を制限することをどう考えるか。
この点について、古典の世界の中では、J.S.ミルの「自由論」がある。自由主義のバイブルともいうべき著作である。
ミルはこの中で、以下のように言っている。
「人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。物質的にであれ精神的にであれ、相手にとって良いことだからというのは、干渉を正当化する十分な理由にはならない……」(光文社「自由論」J.S.ミル著、斉藤悦則訳。以下、引用は同様)
これは後世の人が、他者危害原則などと呼んでいる考え方である。
まあ乱暴に言えば、「他人に害を与えなければ、何しようが本人の自由」ということになるだろう。
望ましくないからとか見ていて不快だからとかの理由で個人の自由を制限することはできない。
仮にそれが本人にとって害となる行為であっても、他者がそれを制限することはできない。
干渉できるのは、他者への危害を防止するときだけだ。
この主張自体は、シンプルな考え方なので、理解しやすいだろう。
しかし、いったい、ここで「他人に害を及ぼさない」というのは、どこまでの範囲なのか?というのは、必ずしもハッキリしない。
もちろん、他人のいる空間で喫煙して、他人に強制的に副流煙を吸わせれば、「他人に害を与えている」と明白に言えるが、自宅でひとり吸っている場合には、まったく一切他人に関係ないと言えるか?
我々は社会的な存在であり、社会と完全に切り離されて生活できる者などほとんど考えられない。そうである以上、個人の行動であっても、何らかの形で社会に影響を与え得るものである。
例えば、喫煙がもとで健康を損ね、医療にかかった場合、医療費の中には公的費用も含まれる(健康保険など)のだから、それを使うことで間接的に他人に害を与えているといえるかもしれない。
例えば、喫煙しているという行為自体が、他人を喫煙に誘引する要素があるかもしれない。仮にタバコを吸っているのが著名人だったら、それを見たファンがマネをするかもしれない。
ミルは人間の生活を、「その人だけにかかわる部分」と「他人にもかかわる部分」に区分し、前者は完全に自由であるべきだと論じている。
しかし上述の通り、社会の中で生きていて、完全に自己にのみ影響を与える行為(他人に一切なんの影響も与えない行為)というのは想定しにくいわけで、ミル自身、「自分自身を害する行為でも、ほかの人…にたいする直接的で具体的な義務に反した場合には、この行為は自分だけにかかわるものではなくなり、言葉の本来の意味での道徳的な問題、つまり社会道徳的に非難されるべきものとなる」と述べている。
しかし、どこまでが「直接的で具体的な義務」なのか、という疑問は残る。
例えばミルは、「偶発的な損害」つまり「社会にたいして果たすべき義務を怠ったわけでもなく、自分以外の特定の個人に実質的な損害をもたらしたわけでもないのに、その人の行為がたまたま社会に迷惑を与えた場合」は、社会は個人の自由のためにこれを甘んじて受け入れるべきであると述べている。
もちろん、ミルの時代には、喫煙が健康を大きく害するという知見はまだないから、ミルが「自己にとって有害な行為」として想定していた行為に喫煙は入っていない。
しかし、「自由論」を読んだ感覚をもとに、仮にミルの論理を喫煙に適用してみようとすると、(あくまで私の感覚だが、)「自分以外の誰もいないところで喫煙する」行為は、それ自体としては、「自己にのみ関わる行為」として自由な領域に区分されそうに思われる。
(※)「それ自体としては」といったのは、喫煙の結果として、社会に対する義務を果たせなくなったりすれば、非難に値するだろうという理屈を念頭に置いている。
私が述べたいのは、「ミルの論理を適用すれば、喫煙規制は不当である」ということではない。
仮にミルの論理を借りてきても、「喫煙それ自体を規制すべきなのか」という問に一義的な答えが出るわけではなく、この問題が、個人の自由に関する議論の緊張点に位置していると感じる、ということだ。
私がいちばんイヤなのは、「悪いものは悪いんだから、どんどん禁止すべきでしょ」というムードのもとに、個人の自由をどう守るかという緊張点が意識されないままに、こういう規制が進んでいくということである。
・「悪いものを規制する」発想の先にあるもの
タバコが健康にもたらす害がこれほど明らかになった状況において、喫煙は仮に個人的な行為であったとしても、上記のように間接的に何らかの形で社会に悪影響を及ぼすのは明らかであり、それを禁止することは至極妥当だ、薬物を禁止するのと同じだというふうに考える人は多いだろう。
――タバコを吸って肺がんになった人の医療費を私が負担するのなんかイヤだ。
――タバコなんてものが販売されているせいで、私の子どもが喫煙に誘引されてしまうかもしれない。
そう思う人も多いだろう。
確かにタバコは悪い。個人の問題だけでなく、社会全体に健康上の損失を生じさせていることは否定できない気がする。そして、私自身、タバコが社会からなくなってくれた方がありがたい。
しかし、タバコが禁止され、その後どうなるだろうか。今度は、「飲酒も健康に有害だ。禁酒法だ」ということになるだろう。
いや、さらに、「甘い飲み物は生活習慣病の原因だ」といって、コーラやジュースが販売禁止されるかもしれない。
いや、それより前に、アダルトビデオは性犯罪を誘発するので、当然禁止だ。ネットゲームは廃人化につながるから根絶。推し活は熱中するあまり散財してしまう人が多いから規制。登山のような高リスクなレジャーも、有害かつ社会に迷惑をかけるといって、非難の的に。
…もちろん、そんなことまで考えるのは、妄想だと言われるだろう。しかし、いったいどこにその線引きがあるのか?「有害だから禁止」とするのは、どこの線を越えてからなのか?誰がそれを決めるのか?
もし、仮にだ。今後、何からの研究で、「タバコを毎日○本吸うことと、コカコーラ(のような砂糖入り飲料)を毎日○○ml飲み続けることを比べたとき、寿命を縮めるリスクは同じくらい」という結果が出たら、どうなるだろうか?(いや、もしかしたら、すでに同じような研究があるかもしれない)
「じゃあ、砂糖入り飲料は禁止だな」と、多くの人が思うだろうか?
あるいは、「いやいや、コーラは毎日飲まなければいいだけでしょ。たまにクーッとやるくらい、いいじゃん」と思うだろうか?程度問題だよねと。
程度問題とは、誰が決めるのだろうか?コーラが販売禁止されない限り、毎日1リットルのコーラをがぶ飲みして早死にする人をゼロにはできないのに、コーラを販売禁止にしなくていいのか?コーラ中毒の親のせいで子どもを砂糖飲料の危険にさらすことがないよう、社会は防止する義務があるのではないか?
それを決めるのは、その時の社会の多数派であり、空気である。
ミルはこう言っている。
「行動の規制について、ひとびとが意見を決めるさいの指針は、誰にも自分や自分の仲間が好ましく思うような行動を求めたがる感情である」。「個人の行為に干渉するとき、社会は、一般と異なる行動や感情を許しがたいものだとしか考えていないのである。そして、道徳家や思想家の十中八九が、この判断基準を、ほとんどそのまま宗教及び哲学の教えとして人類に示す。彼らによれば、ものごとは正しいから正しいのであり、われわれが正しいと感じるから正しいのである」。
要するに、何を規制すべきかというのは、社会の多数派の好みや感情で決まってしまうということなのだ。
ならば、タバコの次に禁止されるのは、私の/あなたの好きなものかもしれない。
幸いにも私が/あなたが、社会の多数派とまったく同じ生活をしていれば、何も困らなくてすむかもしれないが、あまり他の人がやらないような趣味に没頭していたり、多数派から見れば望ましくないような習慣を持っていた場合、いつかそれが、多数派の意見によって、「禁止すべき」といわれないとも限らない。それが多数派から見れば望ましくなかったり、不快だったり、体に悪そうだったりするという理由で。
いくら私が/あなたが、「誰にも迷惑かけてないでしょ、私が勝手にやってるだけだよ」といっても、「いや、それはあなたに害悪だし、巡り巡って社会にも害悪です」と言われて、一方的に禁止されるかもしれない。
それは唯一神が正義に基づいて決めるというものではなく、社会の潮流――乱暴にいえば、多数派の胸算用に左右される。
今、「タバコなんていらない」と思っている私/あなたも、いつ、多数派と考えが相違するかは分からない。
繰り返すが、そんな社会は嫌だ。
たとえ私の/あなたの趣味や習慣が、「悪い選択」つまり自分自身に有害なものであったとしても、それを社会が一方的に禁止してくることを、私は受け入れられない。
・何をすべきかを指示されている社会
もし、イギリスと同じような法律がいずれ日本でも制定されることになれば、私は反対すると思う。
もちろん、この社会からタバコの煙がなくなれば、私は嬉しいのだが、そのメリットを捨ててでも、個人の自由への感度が鈍くなることには反対したい。
本当にそれでいいのか?と思うからだ。
「害悪だ、迷惑だ」といって他人の自由に干渉しようとしたその態度は、別の場面では自分の行動への干渉になって返ってくるかもしれない。
しかし、私が何を言おうが、社会の潮流として、我々は、より道徳的で、より健康で、よりお行儀のいい方向に向かっている。そのこと自体は、たぶん、いいことなんだろうと思う。
そんなとき、私がより気になるのは、最初に引用した
「政府が人々に何をすべきかを指示する中毒性」を懸念している
という言葉だ。
自由の問題はこの懸念に行きつく。
タバコの禁止は、よいことかもしれない。有害なものや悪い行為が排除され、この社会が、より道徳的で、より健康で、よりお行儀のいい方向に向かうことは、素晴らしいことかもしれない。
しかし、それは個人の自由な選択の結果だろうか。
それとも、政府が――あるいは社会の多数派が、「こうあるべき」と指示・強制することの結果なのだろうか。
もし後者であれば、それは理想的な社会なのだろうか。
私はこのタバコ禁止問題について考え込んでいる中で、唐突かもしれないが、ずっと昔、子どものころに読んだ、「ザ・ギバー 記憶を伝える者」という小説を思い出したのだった。
最後にそのことを書いておく。
・小説「ザ・ギバー」について
「ザ・ギバー 記憶を伝える者」は、アメリカの作家ロイス・ローリーが書いた児童向けの小説である。
私はたしか中学生(?)の時に、学校の図書館にあったのを借りて読んだのだが、その本(掛川恭子訳/講談社、1995年刊)は今では絶版になっているようで、代わりに別の翻訳(「ギヴァー 記憶を注ぐ者」、島津やよい訳、新評論)が出されている。
※以下の画像は私が昔読んだ本を図書館で借りてきたもの。数十年ぶりに再読した

小説の概略はこうだ。
近未来、主人公の少年ジョーナスが暮らすのは、整然と管理された規律正しい善良な社会である。
彼らの暮らす社会「コミュニティ」に悪は存在せず、悪につながるような人間の欲望は制限されている。
人々は薬を飲んで欲望を抑制し、家族の形成や生殖活動も統治機関である「長老会」によってシステマティックに管理されている。代理母が子どもを生み、最適な組み合わせの家族が長老会によって決定され、割り振られる。
個人の職業も長老会によって適性を踏まえて決定される。
すべてが最適化され、争いも暴力もなければ苦悩もない、平和で穏やかで理想的な社会が実現している。
一方、人々は過去の記憶を失っている。
ジョーナスは、12歳になった子供たちがみな迎える儀式「職業任命」において、このコミュニティで唯一、過去の記憶を受け継ぐ「記憶を受け継ぐ者」という使命を割り振られ、前任者(「ザ・ギバー」つまり記憶を伝える者)から少しずつ過去の記憶を受け取っていく。人々の記憶を手に入れるに従い、彼はこの社会に疑問を抱くようになる。
小説に描かれる社会は、確かに理想的で、平和で幸福だが、一方で、選択の自由はなく、社会にとって最適ではないと判断された存在は「リリース」されている。
3回にわたり罪を犯した者は、「リリース」される。老人たちは一定の年齢に達すると「リリース」される。そして新生児のうち、コミュニティへの適性がないと判断された者も、「リリース」される。
「リリース」の意味はストーリーが進むにつれ明らかになるのだが、おおむね皆さん想像できると思う。
ここはまさに、「悪い選択」のできる自由がない場所だ。だから必然的に悪い選択の結果も発生しないし、人々がその害悪にさらされることもない。同時に、「悪い選択」をしてしまいそうな存在は、社会から抹殺されている。
これは本当に理想のユートピアだろうか?というのが作品の問いかけであり、それは主人公の最後の行動(ここでは触れないが)にも表れている。
「ザ・ギバー」に登場する理想社会は、問題提起の対象として描かれているが、一方で、正直なところ、けっこう良さそうにも思える。
「他人の不条理な行動によって脅かされない」ということは、現に他人の暴力を受けたり、他人がもたらす害悪にさらされている人からすれば、実に望ましい状態である。
暴力や飢餓におびえず、毎日を平和に過ごすことができる。
「悪いことをする自由も必要だ!」とか言うのは、現に他人からひどい目に遭わされたことがない人間の言う戯れ言にすぎないかもしれない。
でも私はたぶん、この社会に住めないだろう、と思っている。
この世界がすみずみまで清浄化され、聖人君子たちが穏やかに微笑み合う社会が到来したとすれば、私はそこに適合できず、「リリース」される運命なんじゃないかなと感じている。
・最後に:結論はない
本稿に結論はない。
我々の社会は、全体としては、有害なものや悪い行為が排除され、より道徳的で、より健康で、より品行方正な方向に向かっていくようにも思われる。
そして、争いや暴力におびえる日々に別れを告げるため、もしかしたらいつか我々は、「ザ・ギバー」のような社会の実現を望み、それを実行に移すかもしれない。
個人の自由な選択を排除した世界。それと引き換えに平穏で規律正しい、苦しみのない社会。
私は最初に書いた通り個人の自由はとても大事なものだと思っている。でもこの社会に存在する不幸や苦痛を想像するとき、「ザ・ギバー」の社会を容易に否定できない思いも抱く。
そして、それにもかかわらず、「ザ・ギバー」の社会に自分は存在していられないだろう、とも思うのだ。
だからここで何も結論を言うことができない。
「良い選択も悪い選択も自由にできる自由な社会に住みたい」
この言葉は、今聞くと、理念的・スローガン的な、情緒的とも言えるものにも聞こえるのだが、
もしいつか、本当に「ザ・ギバー」のような社会が到来したら、そのとき私(のような人)はこの言葉をもっと切実な、生存に対する必死の訴えとして、口にすることになるのかもしれない。



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