8月だ。
毎年この時期になると、8月6日広島慰霊の日、8月9日長崎慰霊の日、そして15日の終戦記念日をむかえる流れの中で、否が応でも、戦争のことを考えさせられる。
平和な社会の大切さとともに、その平和を守っていくことへの不安と課題も感じる時期だ。
昔はよく、この時期にジブリの名作「火垂るの墓」がテレビ放送されていたものである。
調べてみたところ、昨年2025年にも8月に放送されていたようだ。
史上まれに見るウツ映画
私はこの「火垂るの墓」を、これまで見た中でほとんど頂点に位置するウツ映画ではないかと思っている。
この世にウツ映画は多数あるだろうが、初めて見たときのグッタリ感はすごかった。
一見、子ども向けのアニメ映画の体裁で作られているところが、内容のギャップと相まって、強烈なウツ感をもたらすのである。
こんなものが、「となりのトトロ」と同時上映されていたなんて、完全に狂気の沙汰である。1988年当時の日本はいちじるしく正気を失っていたと考えざるを得ない。
※以下は、「火垂るの墓」をすでに視聴している人を前提に書いている。つまり完全なネタバレになっているので、未視聴の方は十分にご注意ください。
「火垂るの墓」は、よく、反戦映画だとか、戦争の悲惨さを伝える映画だとか言われる。
しかし、違うと思う。
この映画がウツなのは、戦争が悲惨だからではない。
「空襲だけなら死ななくてすんだかもしれないのに」という展開こそがウツなのだと思っている。
清太と節子が死に至った契機は、空襲で家が焼かれ、母が死に、そして軍人である父が消息不明になっていることだ。
彼らは戦争の犠牲者である。
しかし、直接的には、おばさんの家を出てしまったことが、彼らの死を決定づけたことは間違いない。
「あのまま我慢しておばさんの家に世話になっていれば、死なずにすんだのではないか?」
そう感じる人は多いと思う。
(もちろん、そうだとしても彼らきょうだいの行く末には厳しい道が待ち受けていただろうが)
コミュニティとの関係というテーマ
「火垂るの墓」は、私から見ると、「戦争の悲惨さ」を伝えているというより、
「周囲のコミュニティとうまくやれなかった人間の末路」
を示しているように思えるのである。
そこが強烈なウツ感のポイントなのだ。
「コミュニティとうまくやれなかった」ことによるダメージが、戦争というあまりに厳しい環境の中で、死という最悪の結果をもたらしたというストーリーに見えるのである。
清太・節子は、親戚のおばさんの家に身を寄せるが、そこでおばさんの冷淡な仕打ちや、頻繁な小言に耐えられなくなり、防空壕で野宿をし始める。
その結果、満足な食料も手に入らなくなって、栄養失調で死に至るのだ。
おばさんの家に世話になっていた間も、決してお腹いっぱい食べられたわけではないだろうし、おばさんの家族との間に格差をつけられたりしてつらい思いをしただろうが、
さすがにおばさんも、目の前で子どもが栄養失調になっているのを放置して死なせはしないだろうと思う。
おばさんの家での境遇が、死に直結するほどに過酷なものだったとは言えないのではないか。
作中の親戚のおばさんは、なんだかひどい人みたいに描かれているが、私にはそれほどひどい人だとは感じられず、むしろ、「よくいる普通の人」だと思う。
おばさんの立場になってみれば、そのふるまいも理解できる。戦時下で、みな、余裕がないのだ。
十分な物資もなく、生活は苦しく、常時、生命が脅かされている状況で、世の中はギスギスしている。
そんな中で、清太たちは明らかに厄介者である。
しかも、「厄介になっている」という立場を自覚して、精一杯働いておばさんの家に貢献しようとするならともかく、そういう様子もない。
もちろん、清太たちの気持ちも分かる。
彼らは、あまりに悲惨な母親の最期に直面し、満足な弔いもしてやれず、悲しみを吐き出す場面もその時間もなかったのだ。
清太はおばさんの家での扱いに耐えられず、自分たちを冷遇するコミュニティに従属することを拒否して、きょうだい2人だけの生活に閉じこもった。
清太たちが生き延びる術を失ったのは、戦時下の厳しい環境で、コミュニティへの帰属という身分を失ったことによる部分が大きい。
現に、作中に出てくる農家のおじさんも、今は全部が配給なんだから、食べていくためにはおばさんの家に戻ったほうがいいという趣旨の助言をしている。
コミュニティに所属していなければ、生活に必要なあらゆる資源が得られないのである。
親という庇護者を失った孤児2人が、コミュニティの庇護もなしに、荒れ狂う戦時下の社会に単身で対峙して、どうにかなるはずがない。
彼らはどんな冷淡な仕打ちを受けても、どこかのコミュニティにすがりついて、その内部にかくまってもらわなくてはならなかったのに、それができなかったが為に、最悪の末路を避けられなかった。
そういう展開が、ものすごい重さで胸にのしかかる。
なぜなら、「戦争が悲惨だ」という話なら、戦争のない限り、それは自分にとって現実化しない物語である一方、
これを「周囲のコミュニティとうまくやれなかったが故の悲惨な末路」と捉えるならば、それは現代の自分も含め、人間社会のいつでもどこでも当てはまる話だからである。
清太がパズーだったなら…
私はこんな想像をする。「もし、清太がパズーだったなら」。
ご存じの通り、同じジブリ作品「ラピュタ」の主人公であるパズーだが、作品の描写を見る限り、彼も孤児である。
しかし彼には、悲愴な感じがまったくない。
それは多分、所属するコミュニティと実にうまくやっているからなのだ。
パズーの身の上は、客観的にはかなり悲惨である。
親はなく、生きていくために、子どもの身の上ながら、屈強な大人たちに交じって炭鉱労働という過酷な仕事に日々従事している。実に勤勉で、朝は早く起きてラッパを鳴らし、鳩の世話をしているが、学校に行って教育を受けているような様子は見受けられない。暮らしが極めて貧しいことも、さまざまな描写からうかがい知れる。
しかし彼は街の人々にとても愛されている。どこへ行っても、親しみを込めて「パズー!」と声をかけられる。
それはもちろん、彼自身の快活なキャラクターもあるだろうが、彼がコミュニティに融和するための不断の努力を積み重ねているからにほかならないと思う。
皆に対して気持ちよく振る舞う。仕事を引き受ける。不平を言わない。彼にはそういうところがある。
例えばその後、パズーは頼み込んで海賊船に乗せてもらうわけだが、その際も船外作業や見張りなどの、体を張った厳しい仕事を率先して引き受け、海賊たちのコミュニティにさえ融和しようと努めているのだ。だからこそ彼らは無法者である海賊たちからもかわいがられ、親身になって味方をしてもらえる。
もし、清太がパズーだったら?
きっと、おばさんとうまくやっただろうと思う。
「おばさん、○○しましょうか?」と、自分で率先して家内の仕事を引き受けただろう。
外へ行って、働ける仕事を探したり、食料を調達してきたりして、おばさんの機嫌を取るだろう。
そして節子にもシータのように、料理や皿洗いや掃除を献身的に実行させれば、2人はこの家族に融和し、かわいがってもらえたかもしれない。
もちろんそれは、客観的に見ればこき使われる状態には違いないが、そうしてコミュニティに迎え入られれば、いざというときに味方してもらえて、便宜を図ってもらえるかもしれない。
例えば戦後、清太はどこか適当な働き先を紹介してもらい、自分で生計を立てながら節子を養ってやれたかもしれない。
おばさんが清太たちに「かわいげがない」と言い捨てる場面があるが、その「かわいげ」とは、まさにパズーが持っているような力のことだ。
コミュニティに気に入られ、融和するために、自ら率先して労力を拠出し、気持ちよく振る舞い、コミュニティに貢献しようとする態度のことである。
しかし、清太はパズーにはなれなかった。
私自身、パズーよりは清太に近いと思うし、パズーにはなれないと思うからこそ、この映画の内容があまりに重苦しい。
非常時に突き付けられる問題
コミュニティに帰属することは、帰属者に便益を与える一方で、さまざまな軋轢とストレスももたらす。
清太と節子の防空壕暮らしは、最初、それほど悲惨なものとして描かれているわけではない。
むしろ、当初、彼らは窮屈なおばさんの家での居候生活から解き放たれ、2人だけのささやかな自由を手に入れたという様子であった。
コミュニティから出て行けば、面倒な干渉もされないし、不当に搾取されることもないし、ルールの押しつけに苦痛を感じることもない。多くを得られず、不便を強いられるけれど、自由で気楽だ。
しかしこの作品は、そんな考え方をもっとも強烈な描き方で叩きのめしているともいえる。
安易な考え方でコミュニティを拒絶した者の末路は、野垂れ死にしかなかった、と言わんばかりだ。
実際、最近では、清太の行動を非難し、清太の自業自得であると考えるような声も多いと聞いたことがある。
しかし、戦争に巻き込まれ、空襲で母親を失ったばかりの無力な子どもに、いったい何ができるというのか?
自分で選んだわけではなく、強制的に世話になるしかなかったコミュニティにおいて、そこでの扱いがあまりにも息苦しい(特に、自分の最愛の身内である妹にとって非常に酷なものである)ということを理由にコミュニティを自ら出奔したことが、彼らの悲惨な死を招いた。それを「自業自得だ」などとはとても言いたくない。
なんというウツ映画だろうか。
現代は、高度に管理化・システム化された社会である。
だから、「特定のコミュニティへの不所属がすなわち社会からの排除に直結し、即座に生活を脅かす」(要するに村八分のために生きていけなくなる)なんてことはあまり想像できない。
都市では、隣に住んでいる人の顔も知らないままで、特段の支障もなく快適に暮らすことができる。
でも、それは社会システムが何の問題もなく機能している前提でのことだ。
ひとたび、非常時になったら?
何も、戦争などという場面を想像する必要はない。
例えば大災害はいつ何時起きるか分からない。自分自身の個人的な身の上に何か非常事態が起こることだってあるだろう。
「共助」という言葉があるとおり、非常時においては、コミュニティの中での助け合いが極めて有効に働くこともある。コミュニティが果たす役割はとても大きい。
でもそれは、「だから誰もが問答無用で特定のコミュニティに従属すべきだ」ということを意味しないはずだ。
コミュニティの存在は、我々にさまざまな恩恵ももたらすし、庇護を与えてくれることもある。
一方で抑圧になったり、自由を縛る要素になることもある。
コミュニティにどっぷり浸かって居心地よく過ごせる場合もあれば、ちょっと距離を取りたい場合もある。
コミュニティとどのように付き合うか・・・それは、各自が自分で決められるものであってほしい。
もし、「強制されたコミュニティに絶対服従するか、でなければ死か」という選択を迫られるのなら、それはもはや、ただの全体主義である。
緊急的な事態にあっては、「今、そんなこと言ってる場合じゃない」という名目のもとに、個人の意思が抑圧され、全体主義に陥りがちである。
そのとき人々は、「コミュニティに黙って服従できない人間には死の運命がふさわしい」というかもしれない。
いつか、何らかの非常事態が起こり、自分が死の危険に直面したとき、パズーのようにコミュニティとうまくやる力のない私のような人間は、身を守ることができずに、清太と同じ運命をたどらざるを得ないのだろうか。
「火垂るの墓」は、そんな感想を抱かせて、絵空事ではないウツ感をもたらす映画である。
何の救いもない感想ですみません。
おまけ:「火垂るの墓」初視聴時の個人的ウツ展開
以下は余談だが、私にとって「火垂るの墓」が最強ウツ映画に見えるというのは、たぶん、初めて見たのが大人になってからだった、という理由もあると思う。
子どもの目で見れば、「かわいそうな話」で終わっていたかもしれない。
しかし、あんなにテレビでやっていたのに、子どものころの私は「火垂るの墓」を見たことがなかった。ラピュタもトトロも繰り返し見ていたのに。
初めて見たのは、たぶん20代の終わり頃、金曜ロードショーでたまたまやっていた時だ。
当時は結婚して夫婦2人で暮らしていた。
その日は早く仕事が終わったので、夕飯を買って帰宅したら、ちょうど9時からの金曜ロードショーが始まったばかりだった。
最初の10分くらいは見逃してしまい、空襲を受ける展開のあたりから見た。
物語のラスト近くで、「こういう話なんかい・・・」と思いながら、もうグッタリとウツ感に浸っていると、夫(ヨウちゃん)が帰ってきた。

火垂るの墓、初めて見たよ…
いや、ひどいウツ映画だった………
私はドンヨリしながら、感想を述べた。
ヨウちゃんは見たことがあるという。
テレビでは、清太が節子の遺体を荼毘に付している場面が流れる。節子の元気な姿を振り返る回想が悲しすぎる。

ああ、せめてお兄ちゃんは力強く生きていってほしい…(涙)
と私は思わずコメントした。そしたら、

え?お兄ちゃん死んでるでしょ
ヨウちゃんは容赦なく無情なことを言った。

えええ!?そうなの!?
そうである。
冒頭で清太は実に無残な死に方をしており、このアニメはその前提のもと、死者の清太が幽霊となって眺めているという枠組みで進んでいるのだが、私は最初の部分を見逃していたので、その文脈を認識できないまま、視聴していたのである。
後日、冒頭部分を見る機会があり、あまりの救いのなさに呆然とした。
生ぬるい救済を徹底的に否定する冷酷きわまりない作りである。
最初のこの視聴体験が、ウツ映画の印象を一層強めることになった。
何度も言うが、これを「となりのトトロ」と同時上映していたというのは、信じられない所業というほかなく、トトロの牧歌的なイメージに惹かれて映画館を訪れた視聴者からすれば、ほとんどテロリズムみたいなものである。
誤解のないように最後に補足するが、私はこの映画が名作であることをまったく否定しない。
本記事で書いてきたとおり、必ずしも戦争という文脈だけで鑑賞される内容でもないし、これからも繰り返したくさんの人に視聴されるべき映画だと思っている。



コメント