母の日に居心地の悪さを感じる人へ:単に「スーパーにごちそうが売ってる日」ということでよしとしよう。

家族・子どもの話

スーパーに買い物に行ったら、入口付近に真っ赤なカーネーションの鉢植えがたくさん並べられていた。この時期お決まりの風景だ。
今年は、5月10日(日)が母の日である。

通販サイトやコンビニでは1ヶ月以上も前から、母の日ギフトの予約受付中というポップアップが出ていたりするので、我々は毎年一定期間にわたり、この「母の日」という文字に曝露していることになる。

「曝露」などと書いてしまったが、この「母の日」なる文字や、プレゼントのカーネーションの華やかな画像が大量に溢れかえっている風景は、何かチクチクとしたプレッシャーを人の心に与えるものがある。
母の日というイベントは、親子の関係に多少なりとも課題を感じる人間にとって、あまり居心地のいいものではなく、どちらかというとライフを削ってくる感じの存在だ。
私は2人の男児の母親でもあるが、親に対しては娘という立場でもある。

私は、数年前にやめて以来、母の日の贈り物はしていない。

本稿は、「母の日」に対する、個人的でとりとめのない話である。
結論を出すような内容ではないが、私と同じように母の日という文字に何らかの居心地悪さを感じている人に向けて書いているつもりだ。

私の主観では、自分と母親との関係は、必ずしも円満なものとは言えない。
不仲だとまでは言わないが、よくモメる。昔からモメている。
年に数回しか会わないので、その限りにおいてはある程度穏当に接することが可能だが、3日以上一緒にいると必ず軋轢が生じる。

母親とは大学進学を機に離れて住んでいるが、就職してからは、毎年、母の日に何らか贈り物をするようにしていた。
といっても大したものではなく、定番の花とか、ちょっとしたお菓子とか、とにかく気持ちだけのような品だ。
母親は好みがうるさいので、身につけるようなものは贈ったことがない。
もらって困らないようなものを毎年考えるのは少々面倒だった。焼き菓子とか、ジュースとか、色々選んだが、たぶん、あまり喜んでもいないだろうなとは思っていた。何度も言うが、好みがうるさいのである。
ただ、こういうのは単に気持ちの問題だ。
仮に気に入られなかったとしても、贈り物をしたという行為が重要であり、それは「あなたのことを気にかけていますよ」というメッセージを伝えることなのだから、中身は何でもいいだろうと思っていた。

ある年、私はゴールデンウィークに、実家に帰省していた。
その年は鉢植えを母の日に贈るよう手配してあったのだが、私のズボラで、ちゃんと日時指定までできていなかった。
大体母の日前後に届けばいいと思っていたら、なんとずいぶん早く配達されてしまい、私がちょうど実家にいたゴールデンウィーク中に届くという事態が起こったのである。

届いた段ボール箱を抱えて母は家の裏口まで運んできた。そして私に、
「もうこんなものが来たよ!?」
と言った。
「なんて非常識な」といわんばかりの口調である。
そして何か、「こういうのいきなり持ってきても困る」というようなことをブツブツ言っている様子である。
邪魔な荷物を一刻も早く裏口に追いやってしまいたいという態度だった。
そこで具体的にどんな会話をしたか、しなかったか、そこまでは覚えていない。とにかく、彼女は非常に迷惑そうだった。
私に直接、「迷惑だ」といったわけではない。ただ、「迷惑している」という雰囲気を強く醸し出しながらふるまっていた。

それ以降、母の日ギフトを贈るのはやめることにした。

私自身、温和な性格ですと自称するつもりはなく、実に短気である。正直、頭にきていた。
さすがに贈り主がいる目の前で、その態度はないだろう、と思った。内心迷惑に思っているのとしても、相手が目の前にいるのだから、そこは形だけでもお礼を言うとか、あるいは本当にやめてほしいなら、それはそれでもう少し穏当な言い方があるのではないか?

毎年贈り続けていたものを、ある年から辞めることは、けっこう躊躇するところもあったが、こうまであからさまに「迷惑です」という態度をとられると、もう考えるのが嫌だった。

確かに、実際、迷惑ではあったのだろう。
タイミングを少々外して送ってしまったのもよくなかっただろうし、場所を取る鉢植えが鬱陶しかったのかもしれない。
親は庭付きの一戸建てに住み、日ごろから園芸もしているので、鉢植えがひとつ増えても大きなインパクトはないだろうと考えていたが、やはり扱いが面倒だったのだろう。
あるいはそもそも、望んでいないものが贈られてくること自体が煩わしかったかもしれない。毎年の贈りものを嫌がられていたのかもしれない。
そんなことを考えて頭を巡らせていると、うまくいかなかった関係のあれこれが思い起こされ、あのときもこうだった、あのときもこんなことを言われた、などと、嬉しくない記憶が想起されたりして、ただ気が重くなる。
そして最後にはひどく空しくなる。なぜ私はいい大人になってまで、こんなことで思い悩まなければならないのか?

そして母の日の贈り物はもうやめたのだったが、
それでも毎年、商業主義社会は私に向かって、赤いカーネーションのポップを見せつけては「もうじき母の日ですよ?何か買って贈ったほうがいいんじゃない?」としきりに営業してくる。
そして、「何もしてない自分」という状態に対してチクチクと非難がましいプレッシャーを与えてくる。
そういう状態がここ数年あった。

さて、去年のゴールデンウィークに、私はひとつ年上の従姉妹のケイちゃん(仮)に会った。
遠方に住んでいるので本当に久々の再会だった。

一緒に商店街をブラブラしていたとき、母の日の商品が店頭に並んでいるのを見て、私はふとケイちゃんにたずねた。
「母の日のプレゼントとか、なにかやってる?」

ケイちゃんの母(つまり私の叔母)は、私の母の姉にあたる。
私から見ると、ケイちゃんと叔母は、お互いに親密に話をし、きわめて仲がよさそうに見える。同じ県内に住んでいることもあり、ケイちゃんは頻繁に親の家に行っているようだし、自分の子どもたちを親に預けていることもある。

「まあ、贈ったり、贈らなかったりかな?ちょうど渡すタイミングとかあったら持っていくし」
というのがケイちゃんの返答だった。
近くに住んでいるとそんなものかもしれない。

そしてケイちゃんはこんな話をした。
「『茅乃舎のだし』っていうのがあるじゃない?けっこういいかなと思って、こないだの母の日にそれをあげたんだけど、お母さんに持っていったらいきなり、『こんなの使わないよ?』とか言われて(笑)」
「えっ!それ直接言ってきたの(汗)?」
「そうそう(笑)。けっこうキツいこと言うから。しかも、そのあとしばらくたって、お母さんの家に行ったとき、私があげたそのだしがまだ全然使われずに放置されてて、『これ使わないからあんた持って帰んなよ』なんて言うから、結局私が使うことになったよ」
「え――……」
私は面食らっていた。なかなか強烈な対応である。
もしかしたら、日常的に接する関係だからこそ遠慮がなく、言いたい放題なのもしれない。

「ケンカにならない?それ、私だったらマジギレ案件かも…」
「そりゃあ、まあ、ケンカはしょっちゅうだよ。とはいっても、手を借りないといけないこともたくさんあるしねえ」
「ふーむ……」

そんなもんだよ、という雰囲気でケイちゃんは話した。それほど深刻に受け止めているふうでもない。
日々生じる、ちょっとしたモメゴトのひとつというとらえ方なのかもしれない。
ケイちゃんもまた、時には不協和音に直面しながら、親子の付き合いを継続しているのだ。

せっかく持っていった贈り物を「こんなのいらない」と面前で言われて腹が立っても、それで破滅するというわけでもないし、関係が切れてそれっきりということにもならない。この先も当然に関わっていく必要がある相手なのだから。

その出来事は、私が「母の日」から感じるチクチクとしたプレッシャーを、少し和らげた。
そして、親との関係そのものに対して感じる、出所のよく分からない微妙なプレッシャーも、少し和らげた。

親子の関係に正解はない。ならば、必ずしも仲がいいことが理想の状態と決まっているものでもないだろう。
親との関係は、いわば「強いられた関係」であり、自ら選んだものではない。
逃れることはなかなか難しいが、その代わりに、お互いの関わり方については色々な形があっていいはずだ。
そしてまた、選択の余地がない関係である以上、その間に生じる問題のすべてが自分の(というか当人たちの)責任というわけでもない。
そういう気持ちになった。

それで何か解決するわけでもないが、少なくとも、自分ひとりでああでもない、こうでもないと考えこむことは減らせるかもしれない。
どうせ、こっちが気にかけている出来事を、親は大して記憶にもとどめず、あっさり忘れてしまったりしてるに違いないのだ。

今日(5月9日)のスーパーのチラシにも、中央に大きく「母の日」の文字が躍り、ごちそうメニューの写真が並んでいる。
駅前の花屋も賑わっているかもしれない。

私も「母」の一人であるが、我が息子であるチビちゃんたちが、母の日なるものを認知し、何か行動してくれるとは考えにくい。
しかし、チラシに映っているメニューはおいしそうなので、ごちそうを買ってきて食べるのは悪くない。
買い物に行ったらカーネーションの華やかな赤色が目を楽しませてくれるだろう。
お花屋さんが丹精込めて育てた花だ。
買い物ついでに花を見て、きれいだねえと言って帰ってきて、おいしいもの食べていれば、それでよいのだ。

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