岡山に旅行に行く機会があった。
岡山といえば、いちばんに思い浮かぶ観光スポットは、後楽園だろう。
後楽園という名前はややこしくて、東京に住んでいる方だと、まずは小石川後楽園を想像し、そしてその隣にあるかつての「後楽園ゆうえんち」、今の東京ドームシティアトラクションズを連想するかもしれない。
いや、むしろ、文面ではなく音だけで「こうらくえん」と聞くと、中華そばのイメージか。
・・・なんてのは余計な話題だが、
そういう事情もあってか、岡山市の庭園「後楽園」は、たいてい、「岡山後楽園」と紹介されている(公式HPにもそのように記載されている)。
「日本三名園」に名を連ねる名園
岡山後楽園は、「日本三名園」のひとつに数えられている全国に名高い庭園だ。
ほかの二つは、金沢の「兼六園」と、水戸の「偕楽園」。
いずれも江戸時代に造成された大名庭園である。
そう考えると、「天下泰平の世」といわれる江戸時代の安定的な統治が、日本文化の発展に寄与するところがいかに大きかったかを感じる。
こういう庭園を訪問し、すみずみまで行き届いた繊細な作りや、自然美を生かして趣向を凝らした造営のあり方をみると、なんとも贅沢で、完全に実用を離れた道楽の世界だよなあと感じる。平和で豊かであればこそ、こういうものが作れるのだ。平和な世の中が文化にとってどんなに重要かよくわかる。
さて、後楽園には以前も訪問したことがあるが、もう10年以上も前になるだろうか。すでに記憶が曖昧であるが、確かそのときはゴールデンウィークの時期で、ツツジが見事に咲いていたのが印象的だった。
今回、訪問したのは打って変わって、2月の始め。花もない時期である。
園内には、池や築山、建物のほか、趣向を凝らした景観を作っている見どころが多数あるのだが、それを紹介するのは本稿の目的ではない。
公式HPなどで園内の美しい景観が多数紹介されているので、そちらを確認いただきたい。
本記事で書きたいのは、
「何もないっていうこの感じが日本の美だったということを今一度思い出した」
という感想である。
冬枯れの寂しい景色
園内は、ちらほら咲き始めた梅や、木々の間から時おり顔をのぞかせる鮮やかなツバキ等のほか、目立った色彩もない。
旅程の都合上、1時間程度しか時間がなかったこともあり、
園内をぐるっと一周しながら、「いやー、この時期、なにもないねー」などと言いながら帰ったのである。

同じ三名園のひとつ「兼六園」にも何度か行ったことがあるのだが、
兼六園と比べると、後楽園は高低差が少なく、作りが単純で、平板な印象を受ける。
広い芝生があり、視界が開けているので、冬枯れの芝だけがだだっ広く敷かれている単調な景色にも見える。
もちろん雪景色でもない。冬の少しくすんだ曇り空である。
「唯心山」と名付けられた築山が、風景の中で一番際立っているが、ここは前回来たときには紅白の見事なツツジに覆われていたので、その記憶との対比で、余計に寂しく感じたのかもしれない。

さすがの名園でも、冬の景色は、なにもないねー、という感想だった。
実際、後楽園HPの「フォトギャラリー」に載っているのは、「春の後楽園」「夏の後楽園」「秋の後楽園」である。
園内ではあちこちで、造園職人の方たちが整備作業をしていた。
来るべき花の季節にそなえて、今は準備の時期なのだろう。
園内には井田や茶畑もあり、新緑の季節にはさぞ美しいだろう。水路のある休憩所は、夏には涼しくて気持ちよいに違いない。そういうシーズンにまた来たいものだ。
・・・そんな感想を抱いて帰った。
あとから気づいた、大事なこと
さて、後日、後楽園で撮った写真を見た。
あまり特定の景観を意識せず、園内を歩き回っているときにパシャパシャ気まぐれにシャッターを押した写真だ。



あれ?なんか・・・
・・・美しいな。
と私は思った。
不思議だ。
なにもないねー、枯れてるねー、といって見ていた景色が、あらためて見ると、ひどく洗練された美を形作っているように感じられる。
冬枯れの芝は、色を失って、くすんだ色でのっぺりと広がっている。
芝の表面に目につくような変化はなく、ただ何もない枯れた芝が地面をずっと覆っている。
松をはじめとする常緑植物の黒々とした渋みのある色彩が、枯れ芝の薄い色味と対照をなして風景をかたどっている。
葉の中には時々赤みのあるものが混じって多少の彩りを添えている。
写真で見るその絵面には、簡素と静寂が満ちている。
思えば、こういうものを美しい・好ましいと感じるのが、日本文化の感性のひとつだったのではないだろうか?
華美ではなく簡素であること。余分なものがそぎ落とされ、むしろ不足してさえいること。静寂を感じさせる抑制的な作りであること。
そしてそれが、単に劣化するに任せた状態で放置されているのではなく、繊細な手入れのもとに実現されていること。自然の営みと変化を尊重し、人の手で細やかにその姿を写し取っていること。
「わびさび」と言ってしまえば乱暴だし、そもそも「わびさび」とは何かという説明は私の手に余る。
別に後楽園の景観はわびさびを売りにしているわけでもないし。
しかし、冬枯れの後楽園の写真を見返してみると、質素と閑寂、そして自然との調和を重んじる日本の美意識をあらためて再認識する思いだった。例えば豪壮華麗な人工美を満喫するベルサイユ宮殿とは、明らかに違うものをこの国では愛してきたのである。
「見渡せば花も紅葉もなかりけり・・・」とは、藤原定家が詠んだもので、有名な「三夕の歌」(※1)のひとつだ。
冬の後楽園の風景は、まさに「花も紅葉もない」。しかし、その不足・欠乏を風情と感じる感性が日本にはあるはずだった。
(※1)いずれも「秋の夕暮れ」で終わる名歌3つ。寂蓮「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ」、西行「心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮れ」、定家「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋とまやの秋の夕暮れ」。
冬枯れの芝は、生気のない寂しい色が視界一面に広がっているのだが、
見れば見るほど、実によく手入れされていて、その表面には、ゴミどころか、枯れ葉ひとつ載っていない。まるで凪の海のようだ。その風情は、簡素な枯山水庭園の白砂にも通じているように思える。

写真映えを求める風潮の中で
SNSが社会に浸透してから、我々は色んな場面で「写真映え」を重視するようになった。
人に関心を持ってもらったり、好ましい印象を抱いてもらうために、「写真に映えること」「見た目が華やかであること」は非常に重視されている。
京都の伏見稲荷の千本鳥居に観光客が押しかけ、富士山が頭に載っている(ように見える)コンビニに人が殺到するのもその典型だろう。
きらびやかな夜景や満開の桜のショットは、それだけで目立ち、人を魅了し、話題をさらう。
私たちはベストショットを求めてカメラのフレームを覗く。
絵になる風景はそれだけで力を持つのだ。
観光ガイドに後楽園を紹介するなら、きっと初夏の陽気の日に満開のツツジが築山を彩る風景の写真を採用するだろう。
間違っても、冬枯れの芝だけの寂しい写真を載せないだろう。
絵になる写真は一面では正義だ。
しかし、「花はさかりに、月はくまなきをのみ、見るものかは」(※2)と言っていたのが我らの先祖なのである。
徒然草のこの章は、とても有名なものの一つで、我々は高校生の時にきっと習っているはずなのに、今あらためて、その言葉が身にしみる。
(※2)徒然草:第百三十七段
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。歌の詞がきにも、「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、「さはることありてまからで」なども書けるは、「花を見て」といへるにおとれることかは。花の散り、月の傾ぶくをしたふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし」などはいふめる。(略)
(大意:桜の花は盛りのときに、月は曇りない姿を見ることだけがよいのだろうか?雨の日に月を恋い慕い、部屋にこもって春の過ぎ去るのを知らずにいるのも情趣あることだ。もうじき咲きそうな梢、花が散って萎れてしまった庭などにも、見るべきところが多いのだ。歌の詞書にも、「花見に来たけれど、もうすっかり散ってしまっていたので」とか、「支障があって花見に行けず」などと書いてあるのは、「花を見て」というのに劣っているだろうか?花が散ること、月が沈んでしまうことを惜しむのはもっともだが、特に風情を解しない人は「この枝もあの枝も花が散ってしまって、今は見るところがない」なんて言うのである。)
自然は人間の思い通りにはならないもの。この世はままならないことが多いもの。そのありのままを受容するところにわびさびの精神が成立したのかもしれない。
冬枯れの後楽園の景色は、花も紅葉もなく、静まりかえって寂寞としていた。
写真映えしないし、ひと目みたら惹かれるという絵柄でもない。
でも、それを美しいと思う感性を我々の文化は持っている。
もう一度、徒然草のフレーズをかみしめながら、自然の風物や先人たちが生み出してきた造形に向き合ってみたいと思うのだった。







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