安くてウマい、そして栄養豊富な最強食材、モヤシ。
モヤシ生産者の方には足を向けて寝られないくらい、毎日お世話になってます!
しかし、このモヤシという食材には、我々の価値観や人生への向き合い方を問う、大変重大な命題が存在しているのだ……
そう!「モヤシのひげ根をとるべきか、とらざるべきか」。それが問題だ。
かつての私
ほんの2年ほど前まで、私は、
「は?ひげ根?取るわけないじゃん、めんどくさい」
と思っていた。
モヤシのいいところは、安くて栄養豊富なだけではない。何より大きいのは
「皮をむいたり切ったり洗ったりせず、そのまますぐ使える」
ことである。
一人暮らしだったときは、「野菜を摂らなきゃ」と思ったら、
とりあえずモヤシを買ってきて、袋からそのままボウルにバーっとぶちまけてレンチンし、
鶏ガラスープの素をかけて混ぜて食べる、…みたいなことをよくやっていた。
これで十分ウマい。
一人暮らしで自炊したことがある人は、きっとみんな似たようなことをやっていると思う。
一方、専業主婦だった私の母は、料理に手をかける人で、
そもそも実家の料理にモヤシはあまり使われなかったのだが、
たまに野菜炒めなどに登場する際には、
母は流しでボウルに水を張り、几帳面に1本ずつ、ひげ根を取り除いていたものだった。
「そんなことしてたら、手間なく使えるというモヤシのメリットが激減しちゃうじゃーん」
などと私は思っていた。

世の中にはそういう丁寧な人もいるのね、ハイハイ。
「丁寧な暮らし」ってやつねーハイハイ。
雑な暮らしでごめんなさいねー私モヤシは袋ごとバーっといくわ。バーッと。
ある日突然に、人生の選択
そんな日々のあるとき。
私にとって、人生の重大な選択に直面する瞬間は、突然やってきた。
夕飯のためにモヤシの和え物を作ろうと思い、冷蔵庫からモヤシを取り出した私は、
「少し古くなっている感じがする」と思った。
モヤシの唯一の欠点は、足が速いことだ。
消費期限内ではあるが、袋を開けるとやや特徴的な匂いが出ている。
上述の通り、ふだんはモヤシを洗いもせずそのままボウルにぶち込んでいたのだが、
そのときは少し気になって、私はボウルに移し替えたモヤシに水を注ぎ、流しで洗った。
手でかき混ぜると、細くて短いたくさんの白い茎(?なのか?)が流れの中でひしめき合い、重なり合い、水の表面を埋めつくす。
その感触を手で感じながら、私はふと思った。

ひげ根……多いな……
なんか、気になるな……
これ、調味料と混ぜるとき、絡まって、見栄えが悪いんだよな……

ひげ根…
ひげ根………
…………………
——そういえば母は必ず丁寧にひげ根を取っていたっけ。
——本当はそうやって、しっかり手間をかけて作るべきなんだろうな。
——いつも、そんな時間もないからやってなかったけど。
——今は別に、そんなに急いでるわけじゃないしな。
——取ろうと思えば、取る時間はあるんだよな。
水面をたゆたう無数のモヤシたちは、押し合いへし合いしながら、語りかけてくるように思われる。
「ひげ根、とったら?見た目も食感もよくなるよ!」
「食べる人のために、ちょっとした手間をかけてあげようよ!」
「その作業を省くほど、急いでるわけでもないんでしょ?」
「家族が食べるものなんだから、丁寧に作ろうよ!」

……………
…私は、重大な選択を突きつけられた人のように、立ちすくんだ。
今ここで、モヤシのひげ根を取ることは、簡単だ……
決して、難しい作業ではない…たかが数分、余分な手間をかけるというだけのこと…
しかし、問題は「今、この瞬間の作業」ではないのだ。
ひとたび、モヤシのひげ根を取り除く作業をしてしまったとする。
そうなれば、私はきっともう引き返せないだろう…
それは私の人生に決定的かつ劇的なパラダイムシフトをもたらすのだ……!!
その日から私の世界は変わるだろう…
「モヤシのひげ根なんか取らなくてよかった世界」から
「モヤシのひげ根を取らなくてはならない世界」に!!
その世界ではもはや、「今日は時間ないし急いでるからひげ根は省略!」
という選択は許されない。
古いパラダイムは崩壊したのだ。
その日から私は「モヤシを調理するたび、毎回ひげ根をとる人」になるのだ。
…ははは。そんな。馬鹿言うなよ。
ひげ根なんて、取らなくても食べられるじゃん?
私、調べたことあるんだよ。ひげ根の部分って栄養もあるから食べるメリットもあるらしいよ。
「ひげ根、気になるな」なんて、一時の気の迷いだよ。
一度それをやったら、もう引き返せないんだ。
どう考えたって、間違った道だよ。自分で自分の首を絞めるだけだ。
そうだよな。この先、料理の手間を増やすだけだ。ただでさえギリギリ生活なのに。
私は不意に生じたひげ根に対する迷いを吹き払おうとした。
そうだ、台風一過の青空のように晴れ晴れと、こんな迷妄を吹き払ってしまおう。ん?丁寧な暮らしがどうしたって?
しかし、なぜだろう…
水面にたゆたうモヤシたちが、揺らぎながら、混じり合いながら、私を誘ってくる…
なんだ……この気分……
「ねえ、こっちの世界を見てみたくない?」
「ほらおいで。見たことのない新しい世界が広がっているんだよ」
「そう。そこは新世界。「モヤシのひげ根を取る世界」。今こそ漕ぎ出そうよ」
「想像してごらん?ひげ根をとったモヤシを」
「いつもよりずっと口当たりがよくて、端正な美しさをたたえたその色つや…」

あああ!あちらの世界が!!あちらの世界が見える!!!
光り輝く何かが……あちら側から私を呼んでいる………!!!
…
…
そして私は扉を開けてしまった。
引き返せない扉。不可逆のパラダイムシフトの向こう側……
「モヤシのひげ根を取らなくてはならない世界」が私を待っていた。
そして今——人生への問い
…というわけだ(←何が?)。
私はそれ以降、モヤシを調理するたびに、ピロピロと伸びる気になるひげ根を取っている。
おかげで確かに、「モヤシとピーマンの和え物」の舌触りはいささかよくなった気がする。
そして調理に要する時間は確実に少し増加している。
諸君!
君たちは、モヤシのひげ根を取るだろうか。
モヤシたちはその白く華奢な体で、我々人類に、人生の価値とは何かを厳しく問いかけているのだ。
モヤシのひげ根を取れば、食感や見た目はよくなる。人に出す料理として、クオリティが上がる。
一方で、ひげ根を取る作業は、多少なりとも手間のかかるものだ。毎回積み重なれば、無視できない労力と言える。そしてひげ根を取ることで、モヤシの栄養の一部を失ってしまう。
料理へのひと手間を、食べる人への心配りを、そして仕上がりへのこだわりを重視するのか?
合理性を、コストパフォーマンスを、効率的栄養摂取を重視するのか?
我々はこの人生で、何を選択し、何を捨てるのか?
限られた時間の中で、何を追い求め、何を諦めるのか?
小さくひ弱なモヤシたちは、この峻厳な、哲学者のごとき問いを、我々に投げかけてきているのだ…
スーパーで買った200g入りモヤシの袋を手に持ちながら、我々が直面するこの問題は
父王の復讐をめぐり人生の深淵を覗き込むハムレットの葛藤にも劣らない(←?)。
モヤシのひげ根を取るべきか、取らざるべきか。それが問題だ。



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