6.我々の社会がとる道
劇的に進む少子化を前に、取る道は大きく分けて二つ考えられる。
一つは、なりふり構わず子供を増やすこと。
もう一つは、子供は少ない(稀少だ)という前提の社会に変えること。
そのいずれも、おそらく多くの人々にとって、そんなに快適な想像ではないと思う。
・本気で子供を増やすなら?
まず、前者について考えてみる。
本気で、なりふり構わず子供の人数を増やすとしたらどうするのか。
当然、様々な政策により子育ての負担を軽減することが必須であるが、
それでも本記事でこれまで書いてきたように、「望ましい子育て」「望ましい子供」だけを許容し、
その水準をクリアして養育された子供のみ社会に存在することを容認するのであれば、
必然的にその基準をクリアできる人数は減ってしまう。
若者たちは、「とてもそんな要求水準クリアできない」と、子育てに二の足を踏むだろう。
本当に子供を増やしたいなら、
「望ましくない子育て」による「望ましくない子供」も含めて、社会全体で子供の数を確保するしかない。
その結果、端的に言えば「望ましくない子供」、
つまり迷惑装置そのものとして行動する子供も社会に発生するだろうが、
それを容認するしかないことになる。
なぜなら、有事だからだ。
有事に、「子供がうるさい」なんていっている余裕はない。
うるさかろうがなんだろうが、とにかく子供がいないと、国が滅ぶのだ。
だからこの選択肢をとる場合には、
「子供の人数を増やすことが何をおいても最重要課題」という認識が社会で広く共有されなければならない。
親の子育てが不適切であるとか、子供のふるまいが迷惑だという態度の代わりに、
・子供の存在は歓迎すべきものである
・子育ては価値があり、尊重に値する行為である
という感覚と、それを実現する寛容さが醸成されることが必要である。
しかし、その状態を実現することは、もはや現実的ではないだろうと私は思っている。
「ルールやマナーを守り適切に行動すること」が人々に定着している社会において、
迷惑装置の存在を無条件に容認する態度を浸透させることは困難だ。
さらに、「子育ては価値があり、尊重に値する行為だ」という態度は、
別の一面では、「子供を産むべき」という圧力となって、
子供を育てない人に対する風当たりを生みかねないからだ。
だから、このパターンの実現を目指すのは難しいのではないかというのが私の観測だ。
そうすると後者「子供は少ない(稀少だ)という前提の社会に変えること」しか
進める道がないのではないだろうか?
・子供が稀少であることを前提に――あるいはただのディストピア妄想なのか
人口ピラミッドを考えてみよう。
よく使われる説明はこうだ。
伝統的な多産多死型社会では、子供が多く老人が少ないので、ピラミッドの名の通り山型(富士山型)になるが、
経済成長に伴い、出生率と死亡率が低下し「つりがね型」になり、
現在の日本のように少子高齢化が進むと、上が大きく下が窄まった「つぼ型」になる。
富士山型社会では、豊富な若年人口で十分に高齢人口を支えることができるが、
つりがね型やつぼ型になってくると、現役世代に対する高齢人口の割合が大きくなり、
社会保障費の増大を支えきれなくなる。
この先、その傾向はますます深刻になるだろう。
国立社会保障・人口問題研究所が発表している、
2045年の人口ピラミッドの予測図は下のようなものだ。
↓国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口(令和5(2023)年推計) 結果の概要」図1-5より

ご覧の通り、少子化を反映して下がずいぶん窄まっている。
(窄まり方の度合は、出生高位・中位・低位で異なる)
しかし、これはよく見てみれば、逆「富士山型」ともいえるのであって、
これを逆さにしてしまえば、
——なんか大体富士山型みたいな社会ができあがるんじゃない?
などという乱暴な想像が浮かぶ。
つまり、昔の「少ない老人を豊富な若者が支える」社会から、
「少ない子供・若者を豊富な老人が支える」社会にするということだ。
高齢者は社会保障の受益者ではなく負担者になる。
子供はもう、ほんのわずかしかいないのだから、かつぐ神輿は軽い。
40代以上の世代で、30代以下の生活を支えるのだ。
実現不可能なバカバカしい想定に思えるかもしれないが、
「子供は少ない(稀少だ)という前提の社会に変えること」とは、
つまるところそういう結論でしかないのではないだろうか?
介護や医療など高齢者に多く支出される費用については、高齢者のみの負担によって運営する保険制度を作り、現役世代から切り離す。
一方、子供・若者に必要な費用に対しては、上の世代から徴収した税金を分配する。
…なんていう社会が、「逆富士山型」社会だ。
高齢者の暮らしは厳しいものになる。
自分の生活費用を自ら賄いつつ、医療や介護を受けるために少なくない保険料を納付し、
かつ、それと合わせて、希少な子供を社会でしっかり養育していくための費用も拠出しなければならない。
なんたって貴重な「金の卵」なのだから、一人ひとりに公的資金による手厚い教育とサポートが要求されるだろう。
私もこれからどんどん年を取る。(2045年まで生きていれば、60歳になっている)
そんな険しい老後に備えて、自ら防衛していくしかないということになる。
今は現役世代として高い国民負担率に苦しみ、
いずれ高齢者になった暁には、今度は「逆富士山型」における社会保障の支え手として、
やっぱり負担に苦しむ。
私たちには、病苦と貧困にさいなまれる老後が待っているのかもしれない。
…まあ、そんなディストピア的空想が、この2つ目のパターンの結論であるが、
そんなに荒唐無稽な想像ではないだろうと思っている。
そして、未来を生きる子供たちのために、それが彼らの暮らしやすさにつながるのであれば、
親の身としては、その犠牲もやむを得ない。
私たちは、「ゆずり葉」の木なのだ。
何の救いもない話でこの記事を終わってしまうことを率直にお詫びする。
もっとずっと前向きな話を思いついたら、その時にまた何か書くかもしれない。
最後に、むかし、教科書で見た詩「ゆづり葉」を、
「青空文庫」からお借りして、貼っておきたいと思う。
子供のときに全然ピンとこなかったこの詩を、私は親になって以降、ことあるごとに思い浮かべている。
「ゆづり葉」 河井酔茗
子供たちよ。
これは譲り葉の木です。
この譲り葉は
新しい葉が出来ると
入れ代つてふるい葉が落ちてしまふのです。
こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちを譲つて――。
子供たちよ。
お前たちは何を欲しがらないでも
凡てのものがお前たちに譲られるのです。
太陽の廻るかぎり
譲られるものは絶えません。
輝ける大都会も
そつくりお前たちが譲り受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど――。
世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持つてゆかない。
みんなお前たちに譲つてゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを
一生懸命に造つてゐます。
今、お前たちは気が附かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑つてゐる間に気が附いてきます。
そしたら子供たちよ
もう一度ど譲り葉の木の下に立つて
譲り葉を見る時が来るでせう。
青空文庫より引用させていただいた。
「ゆづり葉」河井酔茗



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