子育て当事者として、「少子化は止まらないだろう」と思う率直な理由~その2~

マジメ風味の話題

「その1」から続く

4.「社会に歓迎されていない」ことの中身

なぜ、肩身が狭いのか。
なぜ、社会に歓迎されてない感じがするのか。

それを私は、以下の2つの要素に分けて考えている。
① 「迷惑装置」である子供に対する排斥
② 親の責務と労苦がすべて個人の選択に帰せられること


これを順番に説明しよう。

①子供は「規範から外れた迷惑な存在」として排斥されている

我々の社会は、規範から外れたことをする存在をひどく攻撃する。
「迷惑をかけるな」「ルールやマナーを守れ」といって。

規範から外れた存在は歓迎されず、排斥される。

しかし子供は、そもそも規範から外れた存在だ。
子供は、大人と異なる論理で行動している。
だから、大人たちが大人たちの論理で決めた大人たちのルールにはなじまない存在である。
大人になるまでの間に、大人たちの社会での規範を少しずつ身につけてその中に入れるよう適応していくのであって、子供に対して最初から大人の社会の規範でもって行動せよというのは無理なのだ。

だから私たちの社会が、規範から外れた存在を歓迎しないとき、
子供は社会で歓迎されない。

子供は「迷惑」なのだ。

だから子供を連れている親は
「規範に外れた迷惑な存在をこの場に出現させている」立場として、
肩身が狭いのだ。

親は、「規範に外れた迷惑な存在をこの場に出現させている」ことの責任をとって、
全身全霊でその迷惑を軽減させる努力をしなければ、その場に存在することが許されない

「規範に外れた迷惑な存在をこの場に出現させている」から、
何か悪いことをして社会に借りがある人のような気分になるのである。

我々の社会は、「子供を増やさなければ」と言いながら、
その実、「規範から外れた存在」として、子供を排斥している。

これは例えるなら、「労働力が欲しいから、どんどん移民に来てほしい!」と言いながら、
外国人への排斥運動が起き、ヘイトスピーチが蔓延している状態のようなものだ。
これはその社会が、単に労働力という実利的必要性から「移民が欲しい」などと言いながら、
内心では外国人の存在を歓迎していないことからくるものだ。
そんな社会に移民は来ないだろう。

子供に対する考え方も同じで、
この社会は、社会システムの維持という実利から、「子供を増やさなければ」などと言ってはいるが、
内心では子供の存在を歓迎していない。
そんな社会に子供は生まれないだろう。

②子供を育てることの責務も労苦も、個人の選択の結果とされている

一昔前まで、子供を産み育てることは、社会からの強い要請だったと思う。
「成人したら、結婚し、子供を持つのが当然」という規範があったのだ。
(今でも、コミュニティによっては、そのような規範が維持されている場合もあるだろう)

価値観の多様化に伴い、「子供を持つかどうかは個人の選択」という考えが浸透してきた。
「子を持つ選択も、持たない選択も尊重されるべきだ」という考えだ。

その考え自体には、私は完全に賛同するし、そうあるべきだと思う。
社会が個人に対して、「子を設けろ」と強要すべきではない。そんな社会を望まない。

一方で、「子供を持つも持たぬも自由」という考え方は、
子育ての労苦や困難をすべて「個人の選択の結果」と扱うことで、
逆説的に息苦しさをもたらしたのだと思う。

どんなに苦しくても、全部「自分が好きで選んだこと」と見なされてしまうということだ。

皆が当然に子育てをしていた社会では、子育ての苦労は、社会で共有されているものだっただろう。
「みんなが等しく負っている苦労」だっただろう。
「苦しい、大変だ」と訴えれば、「そうだよねえ」と共感してもらえただろうし、
お互い様だといって、手を差し伸べてもらえることもあったかもしれない。

しかし、その苦労が、「子育てを積極的に選んだ人だけのもの」になってしまうと、
その共感は失われる。
「苦しい、大変だ」と訴えても、
「苦労が嫌なら、子供を持たなければよかったのだ」
「苦労すると分かっていて子供を持ったのだから、その苦労は無際限に受忍すべきだ」
といわれてしまう。

そして、社会は、強要された行為よりも、自由に選び取った行為に対して、より多くの責任を要求する。

つまり、みんなが子供を持っていた、いわば「強要された子育て」よりも、
どちらでも選べる状況で「自由意思の結果、発生した子育て」には、
より多くの責務が課されるのだ。

みんなが、望むと望まざるとに関わらず、子育てせざるを得ない状況なら、
多少、不備があっても、「しかたないよね」と大目に見られたかもしれない。
でも、「自ら選んで子育てする」なら、選択した以上、しっかり責任を負わなければならない。
「自由には責任が伴う」という理屈だ。

親たちが、子育ての大変さや、様々な場面での肩身の狭さを訴えると、
「自分が望んで親になった以上、当然の責務。そんなの当たり前」
「そうなることは分かってて自分が子供を生んだんでしょ。自己責任」
って言われるのだとしたら、もう誰も子供を産まないだろう。

散々苦しい、肩身の狭い思いをして、疲労困憊して生活して、
そのあげくに、「自分の責任でしょ」といわれる。

そして、厄介なことに、女性のほうがより強く選択の主体とみなされがちである。
「産む」という行為そのものを行うのが女性だから、
「自ら産むことを選んだ」という能動性は、男性ではなく女性に課せられやすい。

子供を産み育てることを、純然たる個人の選択の問題としてしまえば、その帰結は明らかだ。
子供を持つことが、例えばペットを飼うことと同じになってしまうのである。

ペットを飼うことは何ら社会的な必要性はなく、完全に個人の好みの問題であるから、
社会はその苦労に何も手当てしてくれない。
「飼い犬の餌代で、家計が苦しい」
⇒お金ないなら、飼うなよ。
「うちに猫がいるから、気軽に旅行にも行けない・・・」
⇒自分で好きで飼ってるんだから、それは諦めろ。
「ペットの鳴き声がうるさいといって隣家から苦情が来る」
⇒近隣に迷惑にならないように対策するのが飼い主の責任。

こんなやり取りと、子育てとが、同じ次元になってしまっている。

子供をもうけ、育てるということは、我々の社会の維持のために絶対に必要なのであって、
いわば国家の存立のために維持されなければならない活動なのだ。
決して「個人の趣味」ではなく、ペットを飼うことと同一視される営みではないはずだ。

一方で、出産や子育てには、きわめて私的な行為という面もあって、
個人のその行為に関して社会が強制力を持って介入することは許されないだろう。
そこに、解消しようのない大きな矛盾が生じているのだ。

・①と②のコンボによって起こること

さて、このような①②の要素が同時に押し寄せる結果、
子育てに関して、親にはとても厳しい規範が課されていると私は感じる。

親は「あるべき子育て」を強く求められる。
なぜなら
①子供は規範を外れた、いわば「迷惑装置」であり、
②親(特に母親)は自ら選んでその子供を産むという選択をしているから

だ。

望んで親になった以上、いい加減な態度で子供を育てることは許されない。
子供を育てるに十分な経済的余裕を持ち、子供に十分な体験や教育の機会を与え、子供の生命・身体の安全のために全集中力を投入し、子供の成長のためにバランスのとれた栄養を与え、適切な生活習慣で日々を過ごさせなければならない。

そして、ひとたび子供を家の外に連れ出す際には、
子供が人様に迷惑をかけないよう、全注意力をもって防止し、
常時、迷惑装置を連れ歩いている自覚を持って、
社会に対して低姿勢で当たらなければならない。

そんなふうに言われているように、私は感じる。

「子供の健全な育成のため、そして迷惑装置の悪影響を最小化するため、
親は持てる資源をすべて投じるべきであり、
それは自分自身のどんな欲求よりも優先される」
そんな考えが身の回りに圧力となって存在するように感じる。

そして、こんな要求はあまりにも法外な水準であって、
一部の人しかクリアできないハードルではないか、とも感じる。
「最低限、子供が死なないように生き延びさせれば、それでよいではないか」
なんて考えは、決して受け入れられないだろう。

このような圧力と、厳しく冷淡な要求が、「社会から歓迎されてない感じ」の中身だ。

5.子供は増えないという悲観

この「社会から歓迎されてない感じ」は、子供を持とうとする行動への強烈なブレーキとなり、
その結果、そのブレーキに対抗できるほどのハッキリした希望を持っている人か、
あるいは別の義務感や責務に駆られている人しか子供を持たなくなる。
「どっちでもいい」「まあ、できればほしいけど」くらいの人は、もうブレーキが強すぎて進めない。

こんな状況で、子供が増えるはずはない。

社会は子供を迷惑装置として排斥し、個人の選択の結果として親に強い責務を要求する。
それはつまり、「望ましい子育て」「望ましい子供」だけを容認し、
その水準をクリアして養育された子供のみ社会に存在することを容認する態度である。

そんな水準をクリアできるのは、ほんの一握りだけだ。だから必然的に子供は激減する。

私が「少子化は止まらないだろう」と感じているのは、そういう理由だ。

繰り返すが、これは私が子育てをしていて感じることを一個人として述べたものに過ぎず、
私の感想が子を持つ親を代表するものだとも思っていない。
人によっては、まったく見当外れで共感できない感想だと受け止めるだろう。

なので、単なる感想としてここで終わってもよいのだが、
じゃあ、今後どういう道があるのか?という想像についても、ついでなので書いておきたい。

その3に続く

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