かつて子どもだった私の願い:ドラえもん映画を、これからもずっと子どものための映画として作り続けてほしい

ユル風味の話題

毎年、春休み前のタイミングで新作が公開される「映画ドラえもん」。
今年も、2月27日から「新・のび太の海底奇岩城」が公開されている。
春休み期間に、お子さんと一緒に家族で観賞に行ったという方も多いのではないだろうか?

私もさっそく3月はじめに子ども2人を連れて見に行ってきたところだ。
本稿は、ドラえもん映画についての、ただの個人的なつぶやきである。
「海底奇岩城」のレビューではないのでご注意いただきたい(本稿の最後に補足として少し触れている)。

親子2代を魅了するドラえもん

今年の「新・海底奇岩城」は、映画のシリーズ45作目にあたるという。
1980年の第1作目「のび太の恐竜」から今に至るまで、これだけの長期にわたり、新作が作られ続けている映画シリーズということに感嘆を禁じ得ない。

昔のドラえもん映画を見て大きくなった子どもたちが、今や親になり、その子どもの世代が最新のドラえもんを見ているわけだ。
私の長男(ひーくん)は、小さい頃からドラえもんが大好きで、ヒマさえあればアマゾンプライムでドラえもんばかり見ている
小学生になってからもドラえもん熱がまったく冷めず、放課後に通っている学童保育では、ドラえもんの原作漫画が置いてあるのを全部読破してしまった。
アニメについても、同じ話を飽きもせず何度も見て、すっかり熱中していつまでもやめないので、親の私もあきれて、「もういい加減にしなさい」と叱責しなければならないほどだ。
当然、毎年の映画を見に行くのを誰よりも楽しみにしている。

私自身も、子ども時代に、どれだけ「ドラえもん」のお世話になったか分からない
毎週のテレビ放送も見ていたし、映画もたくさん見た。
もしかすると、人生で最も長い時間接してきたコンテンツは「ドラえもん」かもしれない。
映画は、映画館に行って見たこともあるが、メインの視聴方法は、レンタルビデオを借りてダビング(←こんな言葉イマドキの子供には分からないだろうが・・・)したビデオテープ(この言葉もレトロである)を自宅で繰り返し見るというものだった。

当時は今のように動画サービスが身近に溢れているわけでもなく、映像の娯楽は限られている。
だから、90年代くらいまでのドラえもん映画は、嫌というほど繰り返し見て、とてもよく記憶している。
私もお気に入りの映画を何度も何度も見て、ひーくんと同じように親から「何回見てるの?もういいでしょ!」と言われていたのである。

ドラえもん映画の作り

ドラえもんの映画では、毎週のアニメ短編とは異なり、のび太や仲間たちによってスケールの大きな大冒険が繰り広げられる。
その舞台はさまざまで、大昔だったり宇宙だったり海底だったり異世界だったりする。
しかし、いずれの物語にも共通しているのは、舞台設定のスケールの大きさにもかかわらず、それが最初から最後まで、「子どもたちの閉じた世界」として描かれているということだ。

映画の中では、時には我々の世界が外からの侵略を受けそうになったり、世界滅亡の危機が迫ったりするのだが、
それはすべて子どもたちの冒険の中に完結していて、大人たちは登場しない。
ここでいう大人たちとは、(のび太たちが対峙したり協力したりする異世界のキャラクターではなく、)のび太が日常で暮らす社会を構成している大人たち、つまり親や先生とか、その社会の行政機関といったものだ。
「たいへんだ!このままじゃ世界がほろんでしまう!」という時に、のび太のママやパパが一緒になって事態に立ち向かうこともないし、一般の社会の構成員や日本政府がうろたえるような描写もない。
すべては「のび太たち子どもの世界」で閉じていて、その外の一般社会に漏れ出てくることがない。

だから、彼らの冒険は、大人たちの目からは、まったく深刻に見えておらず、ある意味、「ごっこ遊び」のような性質を帯びているのだ。
実際、のび太のママたちは、のび太たちが世界の滅亡やら友達の危機やら差し迫った事態の最中にあるときも、
それを単なる子どもの遊びとしか認識していない。
だから「魔界大冒険」では、魔界を元の世界に戻せるはずの「もしもボックス」を捨てちゃうし、
「ドラビアンナイト」でも物語世界に入るための絵本を焼いちゃうのである。
のび太たちの真剣な冒険は、ママからすると「またそんなことばっかりして、遊び呆けて!」と思うようなことなのだ。
全部、子どものお遊び」である。

しかし、誤解なきように言うと、その(大人の目から見た)「お遊び/ごっこ遊び」という言い方は、
決して、本人たちも「遊び」のつもりでやっているとか、作り事という前提で行動しているという意味ではない
本人たちは、至って真剣で、命をかけて冒険しているし、物語の展開もまた、「本当に世界が危機だ」ということを前提としている。
ここが重要なところなのだ。
なぜなら、少なくとも私の感覚では、それは子ども時代の世界認識に非常によく合致しているところがあるからである。

子ども時代のことを振り返ると、大人の目から見れば大したことではないような事態や、ごく狭い場所・コミュニティの中の出来事にしかすぎないことを、
ものすごく重大で深刻で人生の一大事であるかのように受け止めて、右往左往し、必死に対処していた、ということがありはしないだろうか?
近くの山のふだん行かない藪の中に分け入ることがとんでもない秘境の冒険のように感じられたり、
その先で見つけるただの民家が得体の知れない異人のすみかに見えたり、
学校の怪談の真偽が世界の隠された秘密のような重大事に思えたり、
友達同士での鬼ごっこの結果やコレクション集めの競争にほとんど命をかける気分になったり、・・・。

大人になってから考えると、「あんなことに真剣になってたとか、バカバカしいなあ」みたいな感想を抱くが、
子どもだったときの当の本人からすれば、それは本当に差し迫った一大事であり、世界の命運を握っているような出来事であり、命をかけるに値する重大な冒険として認識されている。
その感覚を、ドラえもん映画はきわめて鮮やかに表現していると私は感じるのだ。

ドラえもん映画の冒険からは、徹底的に一般の大人が排除されていて、
それゆえに子どもたち自身がその事態にダイレクトに直面し、命がけの重大な冒険に立ち向かわなければならない。
その、「子どもだけで閉じた世界(大人の庇護や干渉のない世界)」だからこその開放感、ワクワク感、そして緊張感、責任感、悲壮感といったものをドラえもん映画はよく描いていると思うのである。

大人のほうを向いたドラえもんはいらない

だから、ドラえもん映画は、子どものための映画なのだ。
どこまでも、子どもたちの世界認識に合致するように作られた映画なのだと私は思っている。

そのため、大人が観賞すると、「え、そんなに慌てなくても、○○の道具使いさえすれば、解決するじゃん」なんて感想を抱いたりして、子どもの真剣な遊びを横から見て合理的な(つまらない)コメントをするような態度になってしまったりする。

もちろん、大人の目で見ても、ドラえもん映画は面白い。
上記のようなツッコミをしながらも、それでも物語世界に浸って、のび太たちと一緒に冒険にでかけ、喜怒哀楽をともにすることができる。それだけのクオリティを有した映画だからだ。

近年、日本のコンテンツ業界は、アニメの比率が極端に高くなっていて、
昔は子ども向けとされていたアニメというコンテンツが、全世代を対象にしたものに拡大してきた。
それに伴って、ドラえもんのような子ども向けアニメも、大人が観賞する機会が増えていると思うし、
そうすると作り手としても当然に、大人の視点を意識して、大人の観賞に堪えうる作品を作ろうという動機が生まれるのではないかと思う。

実際に、ドラえもん映画が公開されると、大人向けメディアでも関連記事が掲載され、多くの大人たちがその内容や自分の受け止めを実に雄弁に語っている。
ドラえもんを見て育った大人たちは、何歳になってもドラえもんが好きで、ドラえもん映画を見れば、思いを語らずにいられなくなるのだ。私もそうである。
毎年見に行って、鑑賞後はまず夫(ヨウちゃん)と、ああだこうだ感想を語り合い、場合によっては映画レビューサイトを見に行って、他の人のレビューを見たりもする。

そんな大人たちは、みんな、ドラえもん映画に一家言持っている。
好きな作品があり、記憶に残っている場面がある。

私が小さいころ、よく見ていたのは、90年代前半くらいまでの初期の作品なのだが、
この時代の作品は、近年、「新○○」という題名で順次リメイクされており、
今年の「新・海底奇岩城」もリメイク作品の一つである。
だいたいリメイクと新作が交互に公開されているイメージだ。

リメイク作品は、元の作品を子どもの頃に見ていた大人からすると、
旧作との比較もあって、とりわけ色々と語りたくなる要素があるものである。
実際、先日見た「新・海底奇岩城」もそうだが、リメイク作を見ると、私自身、色々言いたくなってしまうことはあり、
率直に「旧作の素晴らしさが失われている」と思うこともあったりする。

しかし、そんな私の感想なんか、正直どうでもいいのだ
大事なのは、子どもたちが楽しんで見ているかどうか、という1点に尽きるのだ。
ひーくんをはじめ今の子どもたちが、面白かった・楽しかった、といって夢中になれる映画なら、100点なのである。
なぜなら上に書いたように、ドラえもんは子どものための映画だと思うからだ。

ドラえもんという超長寿コンテンツであっても、もちろん商業的成功へのプレッシャーは避けられないし、
長いシリーズだからこそ、酷評されるような作品は作れないだろう。
そういう意味では、映画サイトにレビューを書くのも、SNSに感想を投稿するのも、そして映画鑑賞料金を払うのも、すべて大人である。大人の目を意識せざるを得ない理由がある。

しかし、決して、大人のほうを向いてドラえもんを作らないでほしい
決して、大人が高評価するドラえもんを目指さないでほしい。
子どものためのドラえもんを作り続けてほしい
それが場合によっては大人の眼鏡にかなわなかったとしても、いいではないか?

だって、考えてみれば分かることだ。なんで大人たち(含む私)はドラえもんを愛するのか?
いい年して、ドラえもんを見に行って、子どもそっちのけで、熱い思いのたけを語ったりするのか?
それは、私たちが、子どもの時にドラえもんに夢中になったからだ
ドラえもんが、子どもだった私たちの心を捕らえて、その記憶にしっかり痕跡を残しているからこそ、
今も私たちはドラえもんに強い愛着を持っているのである。

だからそんな大人たちは、今の子どもたちにも、ドラえもんに夢中になる体験をさせてやらなくてはならない。
ドラえもんをいつまでも子どものための映画として作ってほしい。

もちろん、大人には大人の思いがあるわけで、私たちが勝手に自分のドラえもん観を語ったり、「こうあってほしかった」と感想を言ったり、懐古主義的思考のもとにああだこうだと批評したりするのは、自由だし、そういう声がコンテンツを盛り上げていくのだから、大いにやったらいいと思う(←実際自分もこんな記事を書いているわけだ・・・)。
でも、作り手は、そんな大人の声を毅然とスルーして、いつも子どもたちのほうを向いていてほしい
子どもたちは映画サイトにレビューなんか書かないけど、面白い作品を作ったら、喜んで見てくれるはずだ。

ドラえもんをいつまでも子どものために作り続けてほしい。
子どもたちが見ている世界を鮮やかに写し取った、あのワクワクする「子どものための映画」を、この先も作ってほしい。
私はもう子どもじゃなくなったが、私の中に今も住んでいる「子どもだったときの私」も、そう望んでいる。

子どものときに見た「魔界大冒険」、「宇宙小戦争」、「鉄人兵団」、・・・本当に夢中になって見ていた。もう一度あんな体験をしたい。

子どもが大喜びで見られるドラえもんが、どうかこの先も続いてくれますように。

<蛇足:「新・海底奇岩城」の鑑賞メモ>

以下は、おまけとして、私が観賞して感じた「新・海底奇岩城」の感想である(ネタバレあり)。
リメイク版を見ると、大人のつまらない懐古主義の常で、「昔のやつのほうがよかったなあ」ということになりがちである。
旧作をあまりに何度も見過ぎているせいで、ほとんど聖典化しているからであり、そういう人はフレッシュな感覚で新作を見ることができない。
その時点で、すでにバイアスがかかりまくった見方になっているので、上に書いたとおり、大人の感想を真に受ける必要はないと思う。以下は本当に蛇足・駄文です

「新・海底奇岩城」は、ストーリーとしてはほぼ旧作をなぞっていたと思うが、今風になっていて、これはこれで、よかったな、と思った。
旧作(1983年公開「海底奇岩城」)は、私にとって、不気味で暗く恐ろしい雰囲気が鮮烈な印象となっている映画である。
旧作は、「バミューダ海域」「魔のトライアングル」「ムー大陸」「アトランティス大陸」なんていうオカルト的な要素、そして「奇岩城」という名称が作品に謎めいた不気味な彩りを与えていたことが、子どもの私にはよく心に残っている。そういう要素がちりばめられているからこそ、最後に出てくるポセイドンがいっそう恐ろしく不気味に見えるのである。しかもその恐るべき兵器ポセイドンが、誰か悪の勢力によって操られているということではなくて、誰の意思も介在しない、ただの自動報復プログラムだという事実が衝撃的・絶望的である。戦い自体が誤認の結果であり、無意味なのである。何という虚無。子ども向けの映画でここまで救いようのない虚無感を前面に押し出していることに驚いてしまう。
何の歯止めもなく自動で大量破壊兵器が発射されてしまう危うさも、オカルト的な要素も、当時の時代背景を前提にしたものだと想像できる以上、そのムードをそのまま現代に持ち込んで、ただちに視聴者にマッチするわけではない。時代に合った改編が必要なのは当然である。

新作では、恐ろしい、不気味な要素が減退したかわりに、深海という世界の未知の不思議、その美しさや神秘を(科学的にも正確に)描こうという意図を感じた。何しろ、海底を描く映像がめちゃくちゃキレイで、手が込んでいるのだ。これは映画館で見ると、感嘆する。シンプルに、海の世界の大冒険に対してワクワクしてくださいねという映像である。
バギーちゃんについて言えば、これはもう大人の身からすれば、最初から結末を知っているのだから、バギーちゃんが何をしても泣けてくるという感想しかない。しずかちゃんがネジに絵を描いてやっている場面ですでに涙ぐんでいる有様である。
旧作の小生意気なバギーと比べると、アッサリした淡泊なキャラクターになっていたが、これをどう受け止めるかは難しい。これだけ生成AIが当たり前のものとして生活に定着している中で、逆に極度に人間っぽいキャラクターにすることもできただろうけれど(生成AIはとても人間っぽいことを言うのだから)、しかしそうすると、最後の行動に至るまでの変化は説明しにくくなり、このへんの造形しかやりようがなかったのかもしれない。

最後の展開もおおむね旧作と共通している。それについては、「ただ昔の作品をなぞっただけで何の工夫もない」という辛口の言い方もあり得るとは思うが、私は「変えない」ということも一つの重要な決断であり、ここは「(大筋)変えなかった」というところに作り手の意思を感じたと思った。
旧作のラストは、実に救いようがない。一応、目下の危機は去ったが、何かが解決したわけではない。争い自体が虚無であり、無機質な自動機械により誰の意思でもない惨劇が起ころうとしているのを、バギーという同じく機械である存在が、しずかちゃんのために身を挺したことで結果的に阻止したという、言ってみればそれだけなのである。のび太たちが活躍した結果でもないし、何か人類が変わったわけでもない。(「鉄人兵団」にも同種の救いようのなさがあるが、最後にかすかな救済が描かれている。海底奇岩城には何もない。)
そうすると、リメイクにあたり、何か救いをもたらすような方向に改変できないだろうか?と考えるのは自然である。「リメイクするなら、別の結末を探りたい」という考えは当然強く出てくるだろうし、その誘惑にあらがうのは、けっこう難しいのではないかとも思う。そういう想像をしてみれば、むしろ、「元のままを残す」ということにハッキリとした意思があったようにも感じる。変えることに勇気がいるのと同じように、変えないことに勇気がいる場合もあるということだ。

そのほか、細かい突っ込みどころを書こうとは思わない。私のような年齢の者が見ると、どうしても、「旧作との比較」「作り手の立場や意図」なんてことに目が行きがちであり、もはや子どものように目をキラキラさせて見ることはできない。だから、いいとか悪いとか批評することは控える。この作品の出来がよかったのか、どうなのか、それは子どもたちが決めることだからだ。

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