【福井県】一乗谷で朝倉義景にサラリーマンの身から同情を寄せる

旅行・地域ネタ

2024年、北陸新幹線が敦賀まで延伸し、東京方面からのアクセスがグッとよくなった福井県

今回は、福井の歴史スポット、一乗谷いちじょうだにに訪問したときのことを紹介したい。

貴重な歴史遺跡

一乗谷といえば、越前を治めた戦国大名・朝倉氏が築いた城下町の遺構である。
そして、どういうわけか、ソフトバンクの「白い犬」(お父さん)のCMのロケ地に使われていたことでも知られている。

越前を100年にわたって統治していた朝倉氏は、一乗谷に整然たる立派な城下町を築き、
その城下町には、都から避難してきた文化人たちによって当時最先端の文化が持ち込まれ、
最盛期には1万人を超える人口がいたとされるほど繁栄を誇っていたという。
しかし、5代朝倉義景あさくらよしかげの時代に、朝倉氏と織田信長との対立によって一乗谷は織田軍の攻撃を受け、
火を放たれて灰燼に帰した。

その後、すっかり田畑の中に埋もれていた一乗谷だが、
1967年に始まった発掘調査によって、数百年前の遺物が極めて良好な形で保存されていることがわかり、
戦国時代の暮らしぶりを今に伝える貴重な遺跡として「東洋のポンペイ」と呼ばれるなど、注目を集めることになった。

その歴史的・文化的な価値の高さによってであろう、国の特別史跡・特別名勝・重要文化財に三重登録されているとのことで、歴史好きには必見のスポットである。

私自身は、日本史に全然詳しくなく、戦国時代についても、きわめて貧弱な知識しか持っていないのだが、
戦国時代の町並みがほぼそのまま土に埋まっていて、数百年前の人々の暮らしをありありと今に伝えているなんて、ワクワクする場所ではないか。

北陸新幹線「かがやき」で福井駅に着くと、駅のロータリーでは、恐竜王国・福井にふさわしく、ウネウネ動く恐竜たちの像というかロボットが出迎えてくれる。

↓袴姿で対局するフクイラプトル×フクイサウルス。一触即発!

我々はレンタカーを借りて一乗谷を目指した。福井駅からは所要20分ちょっとだ。

途中、「道の駅一乗谷」を通りかかり、足羽川あすわがわ沿いの道を走る。
瓦屋根を備えた特徴的な外観の「足羽川頭首工あすわがわとうしゅこう」を横目に見ながら、足羽川の支流・一乗谷川の流れが見えたら、もうそこは戦国時代の遺跡だ

一乗谷の復元町並み

一乗谷の遺跡は今も発掘作業が続いている。
道沿いには、区画ごとに区切られた空き地が続いており、ひと目見て遺跡の発掘現場らしいと分かって、期待が高まる。
道の両サイドはいずれも山地が迫っており、狭い谷間を流れる川沿いに町が築かれていたのだと分かる。

・国土地理院の地図で出してみた地形図。一乗谷は連なる山に挟まれ、隠れ家のような谷間になっている↓

到着してさっそく、「復元町並み」を見学した。
これは、発掘された石垣や溝などの構造物をそのまま使い、出土品から推測される当時の住居の様子を復元したエリアである。⇒一乗谷朝倉氏遺跡ポータルサイト
一乗谷遺跡の全体は見学自由だが、復元町並みのエリアは有料になっており、大人ひとり330円。
後述する博物館とのセット券もあり、少し割引されるので、両方行く人はセット券を買おう

復元町並みの中に入ると、当時の一乗谷が、非常に整然とした都市計画のもとに整備された場所であったことが分かる。
メインになる道路が1本通っていて、その両側に、町人・武家といった身分に応じて区切られた居住区が広がっている。それぞれの住居の作りも復元されており、住居の中に入って当時の生活を想像できるようになっている。

復元町並みの道路の様子。単純な直線ではなく折れ曲がっている「遠見遮断とおみしゃだん」という作りで、敵の侵入に備えて、わざと道の見通しがきかないように設計されているらしい↓

町人の家は入り口が直接道に面しており、道から中に入ると土間があって、奥からは裏庭のような場所に出られる。
一方、武家の家は通り沿いに門があって、門を入るとその中の敷地に複数の棟があるような作りだ。

通りを歩いていたら、装束を着た女の人が出現して驚いた。
どうやら、当時の住人たちの様子を再現したスタッフが、役になりきって歩き回ったり、お茶を出したり、簡単な解説をしてくれたりしているようだ(※)。昔そのままの様子をイメージできるような演出なのだろう。
寸劇的な感じでスタッフ同士が役になりきった会話をしたりしている。
(※)常時スタッフがいるわけではなく、2025年は4~11月の土日祝に実施されているようだった。訪問される方はご確認ください。

休憩用の椅子に将棋盤が置いてあり、近寄って眺めていると、「酔象」という見慣れない駒があった。
裏は「太子」と書かれている。
子供が興味を示していたら、近くにいた町人装束のスタッフが説明してくれた。
この遺跡の出土品の中には将棋駒も含まれていて、今はないこの駒が当時存在したことが分かったらしい。
太子とは王様の跡継ぎで、盤面に太子がいると王が取られても敗北しないというルールなんだそうだ。
当時の人たちも今とほとんど同じような将棋駒で遊んでいたんだなあ。

町人住居の中で、越前焼の焼き物を実際に販売していた。
焼き物も大量に出土しているようで、文化水準の高い暮らしをしていたようだ。

町人の住居はこんな感じ↓


町人の住居の中にある越前焼の埋め甕。染物屋を再現している↓

武家エリア・町人エリア双方に共通して特徴的なのが、家の中にも外にも、あちこちに大量に井戸の跡があること。
このあたりは雪解け水で地下水が潤沢にあり、たくさん井戸を掘れたんですよと、同じく町人装束のおじちゃんが解説してくれる。

武家の屋敷のエリアに移って、復元された屋敷跡を見学すると、こちらはさすがに立派で、使用人の居住棟とか蔵とか茶室のようなのもある。日本で初めてトイレの跡が発見されたのが、この遺跡であるらしい。

武家屋敷はこんな感じで門の中に広い敷地がある↓

復元された建物の座敷に、姉川の合戦の絵が展示されていた。

姉川の戦いは、織田・徳川軍が朝倉・浅井軍を打ち負かした戦闘であり、
敗北した朝倉義景はそのあと、最終的に自刃する展開になり、朝倉は滅亡し、一乗谷も焼かれてしまったのだ。

はるべ
はるべ

やっぱさー、戦国時代ってひどいよね…。戦で負けてこの立派な町が全部、壊されちゃったとか…

ヨウちゃん
ヨウちゃん

そう思うよ。みんなの生活があるのにね

当時の暮らしがリアルに再現されているだけに、これが戦乱で一瞬にして滅ぼされたと思うとあまりに無情だという気持ちが募る。

朝倉館跡(朝倉氏の居館跡)

復元町並みを出て、次に、朝倉氏の居館の跡(朝倉館あさくらやかた)を見学した。
道路を横断し、川の流れの下流のほうへ少し歩くと、屋敷の入り口であった唐門の跡が見える。

朝倉館跡にある唐門。水の流れはお堀の跡で、鯉が泳いでいる(エサやり可)↓


中に入ると、朝倉義景の墓所もここにあった。
朝倉氏の居館跡には、建物などはない。発掘された遺構がそのまま透明なプラスチックで覆われており、その上を歩いて見学することができる。


庭園の跡。居室から水の流れる庭園を眺められるようになっていたのだろう↓

解説を読むと、この近辺には他にも複数の庭園跡があるのだが、時間がなく、見ていく余裕がなかったのが残念だ。
自らの居所にたくさん庭園を造って楽しみ、風雅を好んでいたんだろうなという感想だ。

一乗谷朝倉氏遺跡博物館

最後に、博物館(一乗谷朝倉氏遺跡博物館)を見学した。
(博物館は、復元町並みや朝倉館あさくらやかた跡からは2㎞以上離れており、歩くと30分はかかる距離なので、公共交通機関で行かれる方はバスに乗って移動したほうがよい)

2022年に博物館の名称を改めて新築されたらしく、かなり新しい作りだ。
来訪者への分かりやすさを重視している様子がうかがえ、考古学調査を触って体感できる展示や、発掘された遺構を掘り出したままの状態で展示している部屋もある。
入館すると最初に、朝倉氏の歴史を紹介する映像展示が流れているので、まずはこれを視聴していくのがよい。

出土品は主に2階のフロアに展示してある。
生活用品や職人の道具、武器武具など、さまざまな出土品が、分野ごとにセクションを分けて展示してあり、中央には当時の町を再現・イメージした大きなジオラマが設置されている。

職人の道具類だけでも多岐にわたるが、印象に残ったものとして、例えばガラス製品の工房があったらしいことなどは、この時代ではなかなか驚きのことだ。
生活するのに精一杯というわけではなく、暮らしを楽しむ余裕もあったのではないかと感じさせる。

一乗谷には、のちの将軍・足利義昭が一時期身を寄せていた。
展示品の中には、義昭を饗応するために出された料理のメニュー表などもあり、その豪華な品数に圧倒される。京からも文化人がやってきて滞在したり、それらをもてなすために風雅な宴を催したりして、非常に高い文化水準を誇っていたことがわかる。

2階には、これら展示品のほか、朝倉館の一部を復元した原寸大模型があり、実際に中に入って見学できる。
花壇のある中庭を囲んで立派な廻廊が渡されている建物で、戦国武将の居所にしては、ずいぶんと風流な作りだ。

朝倉館の原寸復元展示。回廊を歩いて見学できる↓

朝倉義景に意識低い系サラリーマンの姿を重ねる

見学を終えてホテルに向かいながら、充実した内容だったね、と話しあった。
復元された町並みの再現度といい、出土品の種類や数といい、歴史遺跡として非常に貴重な場所なのは間違いない。

戦乱が続いた時代だから、一般の暮らしは荒廃していたのではないかというイメージを持っていたが、
一乗谷では文化水準も高く豊かで立派な町が築かれていたことがよく分かった。

そんな町が戦乱によって一夜にして燃えてしまったとは、なんというもったいないことだろうか。

車で走りながら、夫と、「なんで朝倉は織田と対立したんだっけ?」「うまくやってく方法はなかったのかな?」などと、とりとめのないことを話した。

後で調べてみたら、朝倉義景が、織田信長の上洛要請に応じなかったのが対立の要因らしい。
前述の通り、のちの将軍・足利義昭は、一時期、一乗谷に身を寄せていたのだが、
その際、朝倉は義昭の再三の上洛要請にもかかわらず全然動こうとせず、それで義昭は織田を頼ったという流れであった。

朝倉義景は、あんまり戦いたくない感じのマインドだったんだろうな…と、私は勝手な想像を巡らせた。
戦国大名らしい野心のようなものを感じない。
義昭からせっつかれても、別に天下取りの野望なんかないし、積極的に覇権争いしたくもないし、何もしなかった、という感じを受けるのである。
織田に上洛せよといわれても、付き合わされたくなかったんではなかろうか。
むしろ、自分の領地の一乗谷で、庭園を作ったり文化人と交流したりして、風雅な楽しみに熱中していたかったんじゃないだろうか。
まさに「私の生活が第一」って感じである。

そんな想像をして、私は、妙に朝倉義景に親近感というか、「その気持ち、分かるなあ…」みたいな感覚を持った。
私は、あんまり働きたくない、意識低い系のサラリーマンであるが、そのマインドと相通ずるところがあると思った。

朝倉義景の立場を勝手にサラリーマンに重ねてイメージを広げると、こんな姿が浮かぶ。
成長成長!とか、競争で勝つ!とか、他社に先んじて業界を制覇せよ!とか常に言っている、鼻息の荒いゴリゴリ系の上司(織田)に、お前もプロジェクトに参加しろ!と言って引っ張りこまれたものの、
正直、そんな頑張って働きたくないし、ワーカホリックに付き合わされたくないし、それよりも私、早く帰って趣味に注力したいんです、給料分しか働きたくないんです・・・みたいな気持ちで、逃げ回り続ける。
その結果、ゴリゴリ上司のパワハラで追い込まれて退職、みたいな展開だ。

…ああ、嫌だ嫌だ。出世したい、勝ちたい、手柄がほしい系のゴリゴリなワーカホリック上司が働きまくるのは勝手だが、どうか私を巻き込まないでくれ。邪魔しないからそっとしておいてくれ。あなたのワーカホリックプロジェクトに召集しないでくれ。

…しかし、戦国の世には当然ながら、そんな世迷いごとは受け入れられなかったのであろう。
戦って勝つか、やられて死ぬか、どちらかしかない。
そして領民もその争いに巻き込まれて命も生活も脅かされてしまう。なんという無情

現代はせっかく平和を手に入れて、戦って死ななくてもよくなった時代なのだから、
どうか、「意識低い系」の労働者も、滅亡しないで細々と生き残っていけるような社会であってほしいと、怠惰なサラリーマンの私は思うのであった。

朝倉義景も、もしかしたら現代のどこかにサラリーマンとして転生して、平和な世の中を謳歌しつつ、「静かな退職」を選び、定時になればさっさと帰って、推し活とかの趣味に没頭しているかもしれない。

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